仲由は春秋時代の魯国出身で、孔子の生徒として有名です。貧しい家庭で育ちながら、親孝行のために50キロ離れた場所まで米を買いに行きました。冬の寒さや夏の暑さにも負けず両親に美味しいご飯を食べさせる彼の物語は、孝行の大切さを教える感動的なストーリーです。
なぜ「老子」には「老」の文字が入っているのだろう? 老子は年齢不詳である。母体に81年宿り、白髪で生まれてきたという伝説があるほどだ。200歳まで生きたとする者もいる。
2024/06/28
中国は「儀礼の国」と呼ばれた時期があった。三千年前の周王朝の時代、周公が礼を定め楽律を作った。その後、孔子などがこれを提唱し補足するにつれて、礼楽文化は儒家思想の核心となった
二千五百年ほど前の中国でのことです。偉大な哲学者で教育者でもあった孔子には、数えきれないほどたくさんの教え子がいました。教え子の多くは直接教えを受けるために、はるばる遠くから
「孝」は、中華民族の伝統的な美徳です。現在の人々が言っている「孝順」とは、一般人の心中では、「孝」は父母に対するものであり、「孝」とはすなわち「順」(従うこと)なのです。しかしながら、本当の「孝」とは、実際にはもっと深い意味を含んでおり、より広義においては人の品徳といえます。それは、勿論父母に対してだけでなく、父母に対する「孝」は、その中の一部分にしか過ぎず、単純に父母に順ずるだけが「孝」ではありません。
孔子は「信無くば立たず」と説きました。なぜ「信」がこれほど重要なのでしょうか。
ひとりの人間が社会で立脚するためには、まず人々の信頼を勝ち取らなければなりません。信頼を得てからこそ、応援や手助けなどをしてもらえるのです。信頼関係がなければ、前には進めません。
孔子もかつて「その善なる者を選びこれに従い、その善ならざるものにして、これをあらたむ」と戒めたように、他人の良い面を自分が習う手本とし、他人の良くない面を自分の戒めとして、さらに自分の良くない点を改めるべきなのです。
周公が創り出した「礼」(礼儀)と「楽」(音楽)の文化ーー礼楽文化は、中国の何千年もの文化に深く影響しており、かの孔子も周公を非常に敬っていました。
人は眠る時に夢を見ます。夢占いや解釈する本として『周公解夢』が有名です。また、かの孔子も、「夢に旦(周公)のことを見なかった(吾不復夢見周公)ので年を取った」と嘆いた事もあるほどでした。では、周公とは一体誰なのでしょうか?
孔子には数多くの弟子がいます。その中に宰我という人がいて、弁論の達人と評されました。最初、宰我に対して、孔子は良い印象を持っていましたが、徐々に彼が親孝行をせず、道徳心もなく、非常に怠惰であることに気づきました。そして、ある日、宰我が怠けて昼寝しているところを見かけ、「朽木は雕る可からず」(役に立たないものの例え)と叱りました。後に、宰我は反乱に参与したことで殺されました。
江戸時代の中期、元禄16年(1703)というと今から319年前のことになる。その2月4日(新暦3月20日)に、前年の12月14日に本所松坂町の吉良邸へ討ち入った赤穂46士が、が、幕命により切腹して果てた。
信仰をもつ人々は、万物は創造主がつくっことを信じ、人間も神によって創造され、家族や親子関係もまた、神や天に与えられたものと考えた。そこに親や祖先を敬い、無条件に尊重する美徳が生まれ、古来よりそれを「孝道」と呼んだ
2021/12/10
天然の美質を持つ玉石も、磨かなければ、役に立つ器物には成り得ません。それは人間も同じで、生まれながらに優れた素質を持っていても、努力して学ばなければ、人としての道理がわからないものです。子供の頃には、良い先生や友達と親しくし、教えやアドバイスを素直に受け入れ、人との接し方、物事への対処の仕方などの礼儀を身につけておくべきです。
子供を養うにおいて、生きていく上で必要な物資だけを与え、きちんと躾をしなければ、それは親としての過ちです。また同様に、教師が生徒への教育について、厳しくしなければ、それは教師としての怠りです。
楊朱は、その分岐点に立ったまま、久しく泣いていた。
2021/08/07
諸葛亮、劉備、関羽、張飛、曹操の名を知らないものはいません。これらの英雄が活躍する三国志の何百もの物語のほとんどは『三国志演義』で語られていますが、これらの物語はすべて「三国志」を題材にしています。では「三国志演義」と「三国志」、この2つの作品はどう違うのでしょうか。
古文書や民話には、親孝行の例が数え切れないほどあります。
親孝行の人は、常に博愛と正義の心を持っています。
2021/08/01
今から2500年前、釈迦牟尼がインドで仏教を広めていたとき、老子と孔子が中国で伝道していました。『史記』によると、孔子は老子に何度も助言を求めていたと記しています。
2021/07/02
中国には、仏教や道教の神々を祀った寺院が数多くあり、他の神々を祀った寺院もたくさんあります。その中には、孔子を祀った「孔子廟」があります。貴州省南部に謇(ジアン)という名の将校がいて、彼の家は孔子廟の隣にあります。何年もの間、謇将校は、食事をするたびに、必ず食事を少し分けて孔子にお供えしていました
2021/06/13
西漢の時代、コウハ(130 BC–51 BC)という男性のお話です。コウハは政治犯として捕らえられ、獄中に繋がれながらも、決して学ぶことを忘れませんでした。「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」。コウハの言葉を聞いた男は、彼に書経を教えることにしたのです。
2021/05/03
唐の時代、李皋(りがお、733~792年)が温州に在任していた時のことです。李が視察に出かると、年配の婦人がさめざめと泣いているのを見かけました。不憫に思った李は、婦人になぜ泣いているのかと聞きました。婦人は、「私には二人の息子がおります。名前は、李鈞(りじゅん)と李锷(りあ)です。息子たちは功名富貴を求めて故郷を離れ、二十数年も経ちましたが、一度も家に帰って来たことがありません。今の私は、たった一人で貧乏暮らしを送っています」
2021/04/22
今日の中国人たちの心の中では、孔子と孟子の思想を時代遅れの骨董品だと思っているでしょう。しかし、日本の近代資本経済の根基、文化理念、価値観など、全て渋沢栄一氏(1840年-1931年、日本資本経済の父、商業界の父、企業界の父として称えられています)が生涯の師とした孔子の教えによって築き上げてきたのです。つまり、孔子の『論語』の知恵は日本の資本家に活用され、今日の日本社会の基盤を築き上げました。
2021/04/19
孔子の弟子の中に、子路(しろ)という弟子がいました。子路の家族は、とても貧乏で、肉と魚が食べられるのは、特別な日だけでした。その他の日は野草を食べ、お腹を満たしていました。貧しい両親を助けるため、子路は百里離れた市場へ行って米を買い、道端の野草を摘んで帰りました。子路は持ち帰った野草を煮て、親のために食事の用意をしました。
2021/04/19
孔子は、弟子たちそれぞれの能力や性格に合わせ、異なる言い方で様々なことを教えました。『論語』の他に、孔子と弟子たちとの会話録『孔子家語』があります。その中で、現代人にとっても参考になる問答をご紹介します。
2021/03/31
春秋時代の斉の君主・斉景公は大規模な建築物を建てることを決め、多くの民衆は朝から晩まで働かされた。真冬になり、寒さが厳しくなっても工事は停止することがなく、民衆の不満は高まっていた。民衆は宰相・晏子(イェン・ツ)が斉景公へ進言することを期待し、外遊からの帰国を待ち望んでいた。
2021/03/27
偉業を成し遂げた歴史上の人物には、共通する特徴があります。それは、「愚、静、時、信」の四つを守ることです。
2021/02/27
中国古代の人々は「信と義」を特に重んじていた。混乱期の春秋時代においてもそれは変わりなく、春秋の五覇の一人に数えられる楚国の君主・荘王も、信義に基づいて行動していた。彼の言動は後世、孔子に褒め称えられている。
2021/02/23