「孝道」:親子間に結ばれる神聖なる美徳

人類の古い文明は、天が、人間同士の全ての関係を配置したと考えています。これを言い換えれば、人と人とのつながりは「天上からの贈り物」なのです。

信仰をもつ人々は、万物は創造主がつくったことを信じています。もちろん、人間も神によって創造されたものであるとともに、その家族や親子関係もまた、神や天によって与えられたものと考えます。

そこにこそ、親や祖先を敬い、無条件に尊重する美徳が生まれます。古来より、それを「孝道」と呼んでいます。
 

「一人の人間が、どのように現世へ生まれ来たか」に思いを馳せ、心のなかで大切に思うことは、神聖な精神によるものです。あなたが自分の家族を、あるいは社会で出会った全ての人を大切にすることからも、その精神を見いだせるでしょう。(Yuganov Konstantin/Shutterstock)

親への孝行は、なによりも高尚な美徳です。

しかし今の時代の人間関係は、どうでしょうか。時として人は、相手に責任を押し付け、お互いに非難したりします。

もちろん、子供も例外ではなく、両親の要求が高過ぎる、あるいは理不尽だと訴えています。大人は、子供がルールを守らないことを腹立たしく思っています。このような未成熟な対峙を続けたり、どちらが悪いのかを議論したりする必要はありません。

孝道の価値は「自ら反省し、自己の内面に向けて深く考える」ことにあります。それは自分の祖先を身近に導くことであり、先人と同じ問題に遭遇したとき、より効果的に克服する術なのです。

孝道とは、一種の道徳規範です。それは決して時代遅れの古い原則ではありません。

孝道は「こうすれば正しく子育てできる」という、生活様式であることは言えるかもしれません。これはもちろん、子供を甘やかして、だめにしてしまうことではありません。ましてや極端に教養を軽視することでもなく、また、ただ強権的に「子供はだまって、親の言う通りにしろ」と決めつけることでもありません。

そうではなく、親と子が互いに無私で支え合うこと。つまり、子供と親がより身近になるという道徳に基づく責任感なのです。この孝道という美徳の温かさは、この思想を敷衍させることによって、家族関係の外側にも広げられるところにあります。

親孝行とは、父母が存命の間は(子供は奮励努力して)親が我が子を誇りに思うようにさせること。そして、親が死んだ後には、子供たちはその親の御霊を尊重しつづけることです。

こうした親孝行の美徳は、社会的場面においては無私の「報国」として表れ、より大きな社会的調和をもたらすことになるのです。

人は、心の奥底から、「正しい行いをしたい」「良い人になりたい」という気持ちを持ち続けることが肝要です。そうすれば、その内面の大きな度量によって家族を抱きしめ、親や祖先を敬うとともに、その優しさを家族以外にも広げることができるからです。

「孝」は、中国古代の思想家である孔子(B.C551~B.C479)が特に強調した徳目であり、社会秩序の維持および人間に内在する神性の育成に重要な役割を果たしてきました。

孔子の思想は、その言行録である『論語』に述べられています。これらは孔子が残した教えで、人がとるべき正しい行動の数々を指導するものですが、それらは「孝」の一字に集約できます。それは、両親を敬うことから出発し、自身の偉大な品格を修養できる伝統的な道徳の一大体系なのです。

 

漢字の「孝」は、「孝順」の意味を表しています。(大紀元)

「孝」の文字は、上の「老」と下の「子」で構成されているように、子が親を支え、若い人が年長者の面倒をみるという、高潔な美徳を表象しています。

孔子の教えによると、親孝行にはそれぞれ「異なる層」があると言います。

初級段階では、子は親のために働き、親の恩を大切にしながら、自分がはらった労苦を強調しすぎないようにします。中等の段階では、子が尊厳と責任ある行動をとることも含めて、その功績によって親が誇りに思えるように努めます。

最高レベルの段階では、「孝」を漏れなく完璧に実践します。これには、自分の親だけでなく、広く社会に善意を敷衍させて、全ての人に利益をもたらすことが含まれます。

したがって、「孝」を最高レベルまで極めるということは、「自身を最高の人格にまで修養することによって、悟りと解脱の境地に達すること」と言えるかもしれません。

実践された親孝行は、どのような形でも、豊かに報われるものです。
では、孝道の実践において、「寛大さ」をどう解釈すればいいのでしょうか。世界各地の多くの文化には「互助互恵」という考え方がありますが、もとよりそれは「孝」の思想の中にあるものなのです。しかし、もしも慈愛に満ちた相互扶助の関係がなかったとしても、ただ親孝行を実践していれば、おのずと幸運がもたらされます。
親孝行で内省をわきまえている子供ならば、その心は純粋で誠実なはずです。親孝行は親子が相互に尊敬できる関係を育み、宇宙における、より高い次元の力によって形づくられる関係であるからです。

仮に、道徳性が欠如している親だった場合でも、儒家が説く儒教倫理がその支えとなります。
例えば、親孝行な子が、父親の過ちをあえて指摘したとします。しかし、そこには前世からの因縁関係があるはずなのです。子供はその点をわきまえて、親の過ちの核心部分をうまく隠しながら、子に指摘されて怒る父親の不満や苦しみを、もとの慈悲深い状態に変えてあげなければならない、ということなのです。
こうした親孝行を実践することは、個人や家族が、そのときの個別の苦境に際して、良い変化をもたらすことにも役立ちます。
人はまた、その出自がどんなに低い身分であっても、常に祖先を敬い、感謝しなければなりません。自分の家族を尊重するとともに、その善意を家族以外にも広げていくことです。そうした見返りを求めない無私の善意が、いつしか豊かな報いとなって返ってくるのが善なる業(カルマ)です。

三皇五帝のひとりで、伝説的な皇帝である(しゅん)は、もちろん中国共産党が政権を奪うはるか昔の古代中国において、歴史にのこる数々の孝道を実践しました。

舜を生んだ慈悲深い母親は、早く亡くなりました。舜は、愛情のない父と継母とその連れ子のいる家で生活しましたが、父からひどく冷遇されました。しかも父は、後妻の連れ子のほうに跡を継がせるため、実子である舜を殺そうとしたのです。
それでも舜は、父に孝道を尽くし、家族を大切にしようと努力しました。

自分が理不尽な虐待を受けても、舜は「私が何か間違ったことをしたため、父を怒らせてしまったのだろう。だから私が、まず改めなければならない」と考えて、孝道をゆるめることはなかったのです。

ある日、舜は一人で畑を耕しながら「なぜ私は、家族を幸せにしてあげられないのか!」と、天を仰いで叫びました。

そうした舜の、無私で一途な孝道は、多くの人を感動させました。ある日、舜が畑に出ると、どこからやってきたのかゾウが畑を耕していました。空の鳥たちも降りてきて、舜のために草取りを手伝ったのです。

こうした舜の評判を聞いた帝王の尭(ぎょう)は、舜を自分の後継者と決めて、帝位を禅譲(ぜんじょう)しました。禅譲とは、血縁者以外の有徳の人士に地位を譲ることです。
 

レリーフに見られる、父母に孝養を尽くす子の姿。(Illustration –Spaceport9/Shutterstock)

欧州から北米まで、さまざまな文化の中で、亡くなった両親や祖先を記念するためにロウソクを灯したり、祖先の墓に献花したりしています。

多くのアジアの国では、子供が、親や祖先の位牌にお辞儀をして感謝の気持ちを伝える伝統があります。インドでは、子供たちが親の足に触れるのですが、そこには「天へ昇る道と父母の足は結びついている」という象徴的な意味があるからです。

多くの国が定めている「記念日」にも、孝道の思想が及んでいます。

戦時中、国を護るため犠牲となった英霊へ感謝する行事も同様です。

例えば、11月11日は、1918年のこの日に第一次大戦が停戦したことに関連して、欧州の複数の国が記念日に指定しています。

11月11日は、カナダやオーストラリアをふくむ英連邦諸国では「戦没者追悼記念日」。米国は「退役軍人の日」となっています。

言うまでもありませんが、一部の古い伝統的習慣のうち、現代にそぐわない部分は捨てて、新たに変えて行く必要があります。

しかし、あなたがどの国の人であっても、「人がどのようにこの世にやって来たか」ということを大切にしてください。そこには必ず、非常に神聖な内包が含まれています。

そしてそれは、家族を大切にする孝道の実践から伺い知ることができるのです。

(翻訳編集・鳥飼聡)