後漢の陳寔(ちんしょく)は公平で名が通っており、退職後、県内の住民や百姓はよく陳寔を訪ねて裁判を頼みます。
ある日の晩、ある泥棒が陳寔の家に忍び入り、天井の梁(はり)の上に潜みました。陳寔はこれに気づきましたが、騒がずに子孫たちを呼んで、厳粛な態度で教育し始めました。
晋王朝の時、夏統という男がいました。
ある日、政治家の賈充(かじゅう)は自分に仕えるよう夏統を説得するも、断られてしまいました。諦めきれずに、夏統を軍営に招いて見学させ、「もし、私に仕えれば、これらの兵士を指揮することができる。どうだ?威風があるだろう?」と更に説得しました。
「放虎帰山」は後で大きな災いになるものを残すという意味で、よく相手を警告する際に用いられます。
「曲突徙薪」は、事前に手を打って、災難を未然に防ぐことのたとえとして使われます。
「残杯冷炙」(ざんぱいれいしゃ)は、貧しい食事や食べ残しという意味で、ひどい待遇や冷たい扱いをされて、恥辱や屈辱を受けた時のたとえです。
孔子には数多くの弟子がいます。その中に宰我という人がいて、弁論の達人と評されました。最初、宰我に対して、孔子は良い印象を持っていましたが、徐々に彼が親孝行をせず、道徳心もなく、非常に怠惰であることに気づきました。そして、ある日、宰我が怠けて昼寝しているところを見かけ、「朽木は雕る可からず」(役に立たないものの例え)と叱りました。後に、宰我は反乱に参与したことで殺されました。