エジプトのアレクサンドリアは古代地中海世界で最も繁栄した都市のひとつでした。アレクサンドロス大王の死後、エジプトを支配したプトレマイオス朝の君主はアレクサンドリアを学術の中心地にしようと考え、大図書館の建造を始めました。
オリエントの神秘的な色合いを持つアレクサンドリアの大図書館は当時最も多い蔵書量を誇り、最盛期には50万点以上のパピルス紙でできた巻物を保有していました。文学、歴史、法律、数学、自然科学など、そのジャンルも多岐にわたります。
プトレマイオス朝の王たちはまた、30人から50人のお抱えの学者を雇い、アレクサンドリアの大図書館で研究に従事させました。「幾何学の父」と称されるアルキメデス、地球の周囲の長さを計算した地理学者のエラトステネス、地動説を最初に唱えた天文学者アリスタルコスなど、古代オリエントで最も著名な学者たちの多くは図書館で働いていました。
アレクサンドリアの大図書館はプトレマイオス朝と運命を共にしました。紀元前48年、当時ローマの将軍だったユリウス・カエサルがエジプトに進軍しました。そのとき、アレクサンドリアの大図書館は戦火に見舞われ、多くの蔵書が失われました。その後、アレクサンドリアが衰退すると、大図書館の地位は失墜し、その歴史は幕を閉じました。
周王朝の国立図書館と書物失踪の謎
古代文明の誕生の地である中国でも、古くから図書館が存在していました。考古学の面では、中国最古の文字は甲骨文字であり、河南省の殷墟から出土しました。
殷王朝の崩壊後、周王朝が天下を統一しました。その時にはすでに国立図書館が存在し、書物や政府の公文書、その他の文献が数多く保管されていました。しかし、周王室の後継者争いで発生した内乱により、保管されていた貴重な書物は跡形もなく消えました。
周王朝の「蔵室史(国立図書館の館長)」と呼ばれる役職を担っていたのは老子でした。老子が書物をどこかに隠したとの説もあるようですが、結局見つかっていません。さらに不可解なのは、その後二千五百年もの間、周王朝の書物を探そうとする者は一人としていませんでした。古代中国の書物はこうして失われました。
老子は道家の祖でもあり、周王朝の「蔵室史」を務めていた間、儒家の創始者である孔子に学問を教えていたとされています。老子は道家の祖として世界に大きな影響を与え、今日でも偉大な思想家・哲学者の一人として数えられています。
名前もそれぞれ 古代中国の「図書館」にまつわる雅称
漢王朝の時代になると、朝廷は再び図書館を建設し始めました。正式な国立図書館は漢王朝の高祖皇帝である劉邦によって建てられたもので、現在から二千年以上も前の出来事になります。
古代中国では、書物を保管する場所には様々な呼び名が付けられていました。「府、閣、観、台、殿、院、堂、斎、楼」などさまざまですが、いずれも「蔵書の地」を意味しています。例として、周王朝の「盟府」、漢王朝の「石渠閣」、「東観」そして「蘭台」、隋王朝の「観文殿」、宋王朝の「崇文院」、明王朝の「澹生堂」、清王朝の「四庫全書七閣」などがありました。中国の王朝はいずれも書物を保管する場所を作り、専門の役職を置いて管理していました。
歴史書「史記」で有名な司馬遷は、漢の武帝の時代に太史令の官職に就き、書物の管理と史料の収集を担当しました。また、命懸けで皇帝に進言することで有名な唐王朝の大臣・魏徵は太宗皇帝とともに、中国史上、最も理想的な治世といわれる「貞観の治」を作り上げました。同時に「国立図書館長」として、世の中の書物の収集を行い、写本の製作を担当しました。こうして中国では清王朝末期まで、国立図書館が存在し続けました。
国家が管理する図書館とは別に、民間でも書物を集める動きがありました。江蘇省寧波市の「天一閣」は、現存する中国最古の書庫です。建設にあたっては、明の著名な蔵書家で兵部右侍郎(役職の一種)の範欽が主導しました。現在では各種古書約三十万巻を所蔵しており、なかでも明王朝の地方の歴史書と科挙の記録が最も貴重なものとされています。
「四庫全書」は清の乾隆帝が編纂を命じた中国最大の叢書であり、「四庫七閣」という7つの蔵書楼にそれぞれ保管されました。初期に建造された4つは「北方四閣」と呼ばれ、それぞれ承徳避暑山荘の文津閣、紫禁城文華殿の文淵閣、円明園内の文源閣、沈陽故宮の文遡閣です。その後建てられた3つは「江南三閣」と呼ばれ、それぞれ揚州文匯閣、鎮江文宗閣、杭州文瀾閣となっています。「四庫七閣」にはおびただしい数の蔵書が収められ、その数は二十九万四千冊に及ぶとされています。
(新紀元より)
(編集・王文亮)
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