顕日が自分の怒りを捕まえたときも、最初、怒りは顕日そのもので、怒りの中に顕日がいた。怒りと顕日は同じものだった。だが無学老師の巧みな誘いと受け流しで、ふとした切欠が生まれ、顕日はその自分そのものであると思い込んできた怒りを、奥に隠れていた見知らぬ自分が、照らし見ている事に気づいたのだ。その者を仏の宿り主と答えた。あたかも眠っていた自分の本体が、束の間、目覚めたようであった。
美しい女がいては修行ができぬと? そういわれた千代能は自らの顔を火箸で焼く。
とたん、辺りが隅々まではっきり見えるのに気がついた。普通の朝ではないのだ。邦男はやっと、情景の異常さに気づき、上空をキッと見上げた。光に染まった大きな円盤が空を覆っていた
邦男の脳裏にはまざまざと六十五年前のスミがよみがえっていた。スミが嫁に来てくれるとうなずいたときのあの静かな目だ
再び、今の邦男は家を飛び出し、スミの駄菓子屋を目指していた。窮地に陥ると、笑ってごまかすのは十の時から世間の荒波を渡ってきた習いだ。木立の影が被さる駄菓子屋の入り口をニカニカしながら入るや否や、邦男はサラッとたずねた。
スミと結婚すると言い出したのはちょうどその頃である。付き合った連中が悪かったのか、そもそもませたガキだったのか。戦時中はもちろん男女席を同じゅうせず。それが打って変り、キスシーンが売りのアメリカ映画に毒されて、子供のころからいっしょに育った近所のスミに狙いを定めたとしても、致し方無かったのかも知れない。
実は、スミのほうもまんざらではなかったらしい。十歳の時に寂れた神社で二人っきりになって以来の、ほのかな思慕があったというのだから分からないものである。いずれにしろ二人は若すぎた。邦男の父母に大反対されて、怒った彼は、その時から十八になるまで家出して、行方不明となった。
駄菓子屋六十五年の薄暗がりは昭和の匂いでできている。店前にはビー玉とベーゴマが並べられ、真ん中に狭い通路。その右側に置かれているのはくじびき景品付き駄菓子などでニッキのジュースが今なお並び、左にはガンダムとゼロ戦のプラモがごちゃごちゃと重ねてあった