【長編連載小説】 千代能比丘尼物語 第四回

2023/07/09
更新: 2023/07/09

 

大接心、一瞥を得る

老師、懸日を二度も殴りつける。そして三度目は? 

 

日々は早足で歩み去る。

 夏末に行われる大接心という専心修行の時であった。座禅が終わると、時を置かずに老師の部屋に出向いて、その境涯をお知らせする。日に何度も何度も、入れ替わり立ち替わりにである。

 作務も托鉢も雑用もなく、唯々それだけを繰り返す。全員が必死に公案だけに立ち向かうのだ。厳しい残暑にも関わらず、寺全体が、悟れ、悟れと大きくうねっていた。

 その日の、数えて三度目の入室だった。顕日はうなだれて廊下を渡っていた。殴られた頬が今もじんじん痛む。

 涙目になりながら頬をさする。一度目は見解を申し上げたとたん、無学老師に殴られた。二度目は見解を申し上げる前、敷居をまたいで老師に合掌した途端、老人とは思えない身のこなしの一撃を食らった。鳴きはじめたひぐらしの声が森を渡って、益々いたたまれなくなる。

 何にも増して殴られる理由が、皆目分からない。

──仏の宿り主とは誰か? 仏もかつては人であった以上、仏の宿り主とは人間であるはず。では、人間とはなんだ? これまでも顕日はそれなりの答えをもって、老師に対してきた。そして老師もかみ砕くように譬えてくれていたのに、大接心が始まると、人が変わったように恐くなった。

 朝からずっと入室を順に繰り返し、少しも進歩のない僧衆に呆れかえったのか? あるいは顕日の理解が愚鈍なのか。殴られるほど見込みがないのか。顕日の心は塞ぐばかりだ。

 老師になどに会いたくもないと、歩みが鈍くなっていた。

 知念が庭石に抱きついて、かぶりを振っている。それを高単(先輩)が二人がかりで引っぺがそうとしている。知念も入室を拒んでいるのだ。

 自分だけではないにしろ、今この時、顕日には老師に申し上げるなにものもなかった。

 空っぽのまま老師にまみえるのが、羞恥(しゅうち)の極みだった。

 それでも仕方なく敷居をまたぐ。その足先に勢いがない。

 老師に向かって額ずいて、力なく手を合わせた。

 冷や汗が背筋を伝う。上目遣いに老師を見遣る。

 泰然と座を組んだ老師が、目を見開いた。静かな声が響いた。

「痛みは取れたか?」

「はい、だいじょうぶでございます」

「そうか。ではもう一度殴ろう」

 老師がゆっくり立ち上がる。

 顕日は頬を押さえて、腰を浮かせた。

「逃げるでない!」

 と言うや否や、老体とも思えない足裁きで顕日に迫り、目にも止まらぬ拳が飛んできた。

 目がくらみよろめいた刹那、

──理不尽な!

 そう、心の中で何者かが叫んだ。老師ともあろう人が無抵抗な弟子を三度も殴るなど、あっていいことか? 吹き出る冷や汗とともに怒りが沸騰した。

 顕日は三度も殴られたのだ。乱暴にも程があるぞと、自分の目尻がつりあがり、老師を一瞬、自らの顔を引きつらせて睨みつけたのがわかった。

 かたや老師はふいに静かな顔に戻ると、何事もなかったかのように座についた。

 視線を逸らせて庭を見遣っている。殴った事などどこ吹く風。その無言のたたずまいに、顕日は息を呑んだ。

 顕日の心も体も怒りで一杯なはずなのに、その怒りが行き所を失って宙を漂う。

 目の前に自らの怒りがどす黒く蠢いた。

 これか! と、ひらめいた。

 その時こそ、顕日は自分の怒りを直に捉えていた。

 すると、躰から全ての力が自然に抜け、老師の前に崩れるように跪いていた。表情を和らげた老師が、顕日をじっと見ている。

「顕日殿、何か言ってみなされ」

「湧き上がる怒りを、捕まえてござる」

「ほほう、ならばそれをここに見せてみよ」

「捕まえたとたんに、煙のごとく霧散致してござる」

「仏の宿り主とは誰か?」

「怒りを捕まえた者のことでござる」

 老師が大きく破顔した。

 穏やかな無言に顕日は包まれた。それが例えようもなくうれしくて、顕日は頬を赤く染め、腹の底から湧き上がる喜びを止められず、老師を見て、赤子のように笑っていた。

 

 顕日の小さな悟りにも頓着することなく、禅寺での修行の日々は微塵も変わらない。

 大接心が終わった翌日の午前中は、托鉢の日となった。寺が檀家の寄進によって賄われるのは、仏祖の当時から変わらぬという。在家信者の支えがなければ、僧は修行もできぬのだ。

 しかしそうなればそうなったで、飢えて死ぬ覚悟の上の出家であると教わった。

 顕日には気迫が漲っていた。

 犬が吠えても動じない。鶏が草鞋を突いても動かず。どのような意地も張ることはなく、布施をいただいても、いただかなくとも、動中の静、何に執着しているというのか? 托鉢している自分をじっと見つめることを、正念相続という。

 頭中の騒がしさは穏やかになり、体も軽々としてくる。だが心は定まらない。心は流れ行くものなのだ。それが本性なのだろう。

 いつの間にかあの峠で、乞食(こじき)のように乾飯をねだった千代能が脳裏に浮かぶ。この托鉢も乞食(こつじき)行だった。同じねだる行為であるのに、この天地の開きほどの違いはなんだろうか。

 あの時千代能は命をつなぐために食を乞うた。

 そして今は悟りを得るために修行している。そのために生きなければならない。

 生きるために食べるのではない。食べるために生きるのでもない。

 仏と同じ悟りを得るための修行だ。修行こそ自分の生そのもの、そう! そうに違いない。

 顕日はそうありたいと強く願った。

 生きるために食べる千代能はすでにあの山で朽ちて、土に還った。頬に浮き出た火傷跡、それが千代能の過去の墓標だ。

──千代能殿、顕日はあの指切りを忘れてはいませんぞ。

 そう穏やかに心で呼びかける顕日という男、捨てた者ではないと、我ながら思う。

 すると辻向こうの千代能が、ふと振り返って静かな笑顔を見せた。

 顕日は空の托鉢を袈裟袋にしまうと、再び「ホウー、ホウーッ」と、天に向かって声を上げる。

──生きることは、素晴らしいことではござらぬか。

 そう思える顕日もまた、少しはましな男になったように思えた。

 

千代能の一瞥

千代能と二人きりで、境涯を分かち合う。自分の心に気づいている密やかな自分。

 

 午前中の托鉢を終えて寺に戻ると、弁事を言いつけられた。ここから二刻(一時間)ほど西にある海蔵寺へ、今夜開かれる檀家寄り合いの手伝いに、千代能と二人で行くことになった。

 千代能は水仕事を、顕日は力仕事を手分けしてやるようにとの指示である。無学老師も夜半の寄り合いには出られるらしい。

 他の寺への手伝いとなれば道々は自由に話が出来る。顕日はしばらくぶりに千代能と二人きりになれると思うと、心を捕まえる気づきもどこえやら、そわそわするのを持て余した。

 海蔵寺へは、西へ向かう亀ヶ谷坂の切り通しを超えてゆく。両側に崖がそそり立ち、その岩肌は、手彫りで穿った跡が人のぬくもりを感じさせる。天蓋を覆う楓が吹き抜ける風に立ち騒ぎ、秋が来ると感じさせる山の爽やかさが、顕日と千代能をずっと包んでいた。

 細かい石砂利が引かれた細い道筋の端、岩の割れ目にひっそり咲く野草の花を見つけては、千代能がしゃがみ込んで摘んでいる。花の匂いを味わう。透き通るような千代能の肌に明るい紅花が映えた。

 顕日は道々、この間の相見で、自分自身の怒りを捕まえた話をした。

「顕日殿の怒り、この千代能もそれを見たかった。一体どんな色だったのでしょう?」

 怒りは何色? という思っても見なかった問いに、顕日は首を傾け、その時を思い出す。

 

「ぐにゃぐにゃと蠢(うごめ)くどす黒い蛇のような」

「気持ち悪そうでございますな」

「はあ、怒りの矛先を老師によってふいに逸らされて。あの時のお顔、何物にも染まらず、何物にも関わる事のない空そのものでござった。庭を泰然と眺められて、我が怒りが行き所を失って、目の前にはっきりと現れたのでござるよ」

 千代能が頷いている。千代能には分かるのだろうか? 千代能ももしかしたら同じように殴られたのか?

 そんな心配をよそに、千代能の丸い網代傘を風が持ち上げ、傷のない方の横顔が垣間見えた。その顔が明るく顕日に向いて、微笑んでいた。

「顕日殿は、犬と、猫と、どちらがお好きでしょうか?」

 千代能の愛らしさに、手をつなぎたいという思いを必死に堪えていた顕日は、その唐突な問いに面食らった。

「い、犬でござろうか」

「その問いと全く同じことを、老師からいただいたのです」

 まるで千代能の自信の基(もと)を解き明かすかのような得も言われぬ喜びが、千代能の顔に広がった。

「老師が吾に下さった同じ問いを、顕日殿に差し上げまするが、いかが?」

 老師の問いときいて、顕日の背筋がすくっと伸びた。

「顕日殿、犬か、猫か、という問いに、犬と答えたときに、犬の姿を思い描いたのでは?」

「はあ……まさしく、そうでござる」

 滅多に会わぬ父上が宮中の庭で飼っていた、権座(ごんざ)という大きな白犬の姿を思い浮かべた。するとすかさず、犬をめでている父の笑顔を思い出し、そばに寄ろうとした顕日に、権座が吠えた。

 それをたしなめる父の一声で、権座がすぐさま大人しくなり、それどころか、顕日の手を舐めようと甘えてきた。子供ながらに父に従順な家来なのだと、感心したものだった。

 だからか、犬が好きと答えた。

 呆然と物思いに耽る顕日に、千代能が微かに含み笑いを堪えるように続けた。

「その時! 顕日殿は、その犬の姿を、どこに、思い浮かべられたのか?」

 顕日は、目線を明後日の方に漂わせ、つい今しがたの記憶を探した。いかにも、老師からいただいた問いではある。

 意表を突くこと甚だしいと思いながら、さて、どう答えたらよいか唸りながら、顕日は額の少し上を指さして、

「こ、この辺りでござろうか」

 どこと言われても知らずに浮かべた像であるが、間違いもなくそれを像として、一枚の絵を額の辺りの空間に描き出していたはず。

「しかと、相違ないか?」

「はあ、間違いござらぬ」

「しからば、その姿形を描いた者は、誰でござる?」

「そ、それは顕日でござる。け、顕日の心でござる」

「では、重ねてお尋ねいたす」

 まだこの先があるのかと顕日は身構えた。

 千代能が顕日に向き直り、衿をただした。笑みが消え、赤黒い火傷をくっきりと見せながらその一途な眼差しで、顕日を貫いた。

「その額の辺りに浮かべた犬の絵を、見ていた者は誰であろうか?」

 それはもちろんその絵を描いた者、すなわち顕日の心と言いかけて、口が固まった。やにわに顕日の背筋も凍り付つく──違うのだ。

 顕日の心は額の辺りに思い描いた絵の中にあった。父との記憶の中での邂逅、そこから犬が好きだという情がしみ出ていた。父を敬う顕日の気持ちが、その絵の中に埋没していた。

 浮かんだ絵と顕日の心が表裏のように一つになっていた。

 ところがそれでもなお、その絵を、顕日の心をも含むその絵を、どことも言えぬどこかで、誰とも言えぬ誰かが、その絵に関わることなく、音もなく、動きもなく、秘やかに、その絵とそれをそこに描いた顕日を、ほのかな視線で照らし見ていた者がいた。

 その者がいなければ、絵が描かれた場所など分かるはずもない。そしてそれは顕日が垣間見た、怒りを掴まえた者とうり二つ……、否、同じ者であった。

 呆然と立ち尽くす顕日に、千代能が会心の笑顔を浮かべていた。

「やはり、顕日殿もあの本体に気づかれたか」

 顕日が自分の怒りを捕まえたときも、最初、怒りは顕日そのもので、怒りの中に顕日がいた。怒りと顕日は同じものだった。

 だが無学老師の巧みな誘いと受け流しで、ふとした切欠が生まれ、顕日はその自分そのものであると思い込んできた怒りを、奥に隠れていた見知らぬ自分が、照らし見ている事に気づいたのだ。その者を仏の宿り主と答えた。

 あたかも眠っていた自分の本体が、束の間、目覚めたようであった。

 いつのまにか、千代能の顔は喩(たと)えようもない穏やかな表情に変わっていた。その滲む喜び、そう、千代能もすでに顕日と同じ、あの奥の本体を垣間見たに違いない。

「千代能殿も、あれをご覧になったのですな」

「はい。相見部屋から立ち去る間際、老師は、その来ることもなく行くこともない者を、本当の目覚めに導きなされと、それがこれからの修行となると、そう申された」

 顕日を見つめる千代能の愛らしい眼差しはそのままだ。だが、千代能の気づきは顕日にも、千代能自身にも、その両方に向けられている。千代能はそのことを如実に示すような遠い目をした。

 

 細道を吹き抜ける風を気持ちよさそうに、千代能が歩き出す。顕日も再び千代能の脇に並ぶ。

 顕日の胸の深い所から、ゆっくりと息が吐き出されてきた。心をとろけさすような切ない胸の痙攣、顕日はそれをじっくり味わった。

 千代能が再び狂気に苛まれることはない。顕日にはそう確信できた。垣間見たあれは過去も未来もどんなしがらみもない、自分自身を超えた、途轍もない自分だと思えたからだった。

 

(続く)