第4話
邦男の脳裏にはまざまざと六十五年前のスミがよみがえっていた。スミが嫁に来てくれるとうなずいたときのあの静かな目だ。
あの時のために、自分の人生があった──邦男はそんなふうに考えている自分に驚きながら、きっとその時に自分の人生は終わっていたのではないかと思いあぐむ。記憶は鮮明で、あの時以上の幸せは、その後なかったように思えてしかたがない。同時に邦男は震えだしていた。生死と同じくらい大事なことをし忘れて、その後のスミの六十五年があったとしたら──そう考えついたのだ。やがてにがい喉の奥からでた言葉は意外なほど素直だった。
「すまんかった。スミちゃん」
邦男が気をもむほど、スミの沈黙は長かった。しばらくして、すこし鼻にかかった声が届く。
「邦男さん、お腹すいてませんか?」
邦男でも察しがついた。泣かしてはいかん、それだけはまずいと慌てた。
「そ、そうだな。何か二人でたべようか」
と、言いながら飛び起きて電気をつけ、
「ついでに二人で風呂にで……」
湿った空気を払いのけるためにそう軽口を言いかけて、襖を覗くと仏壇が見え、そこには腹上死した御仁が鎮座していたのであった。
二人の生活は変わらない。スミはいつ来るともしれない子供のお客を待って駄菓子屋に座り続け、邦男は孫の幼稚園の送り迎えを一番とし、それが終わると下町をさまよった。
UFOと宇宙人の話は下火になったが、代わりに、大人になった咲が未来から自分に会いにくるのだと、さらに拍車がかかった妄想を言い触らして歩いた。
幼なじみの家に上がり込んだ上にこれである。いよいよ歳のせいでおかしくなったと周りは恐れおののいた。しかし六十五年が無駄足だったと分かったら無理もないのかも知れない。
夕方には駄菓子屋に戻り、十センチ開いた襖を隔てて、スミとの昔話にふけりながらいつの間にか眠る。周りの不安をよそに、彼の日々は例えようもなく穏やかだった。
咲は案の定、毎日遊びに来た。今日はあいにく邦男が徘徊中で、がっかりを隠さない咲が、スミの横にちょこんと座る。足をぶらぶらさせながら子供の大胆さを発揮した。
「おじいちゃんとは恋人同士なの?」
「さ、さあ、どうでしょう?」
スミにも、邦男との関係がなんであるかわからないのである。
「ただのお友達じゃないって、パパとママが言ってたよ」
「でも、おじいさんとは、ずっとお話をしてるだけよ」
「どんな話?」
「ほとんどは昔の話ねぇ」
「昔は恋人同士だったの?」
「そうかもねぇ。淡い恋人だったかもね」
「淡いって、どのくらい?」
「小指の先くらい」
「それじゃ、ちょっとだけ?」
「そう、ほんのちょっとだけ」
「おじいちゃん、変な話はしないの? UFOとか宇宙人とか未来人とか?」
「聞いたことがないわねぇ。昼間は出かけてるし」
「へえ、おどろきだ! だって家にいると、変な話ばっかしなのに」
「そうだったの?」
「なんでだろ? おばあちゃんには変な話をしないのは、な~んでだろう?」
「きっと、おばあちゃんが年寄りだから」
咲がきゃきゃっと笑った。
ちょうどそこに、向いの校門の影から息子夫婦が姿を現す。どうやら隠れて見ていたらしい。菓子折りを持ってもじもじとやってきた。言いにくそうに、そして緊張を隠せず、
「父が、い、いつも、お世話になってます」
息子がきっとした顔でぎくしゃくと頭を下げた。続いて後ろにいる妻を垣間見、その表情に促されながら、
「め、迷惑なら、ひ、引きずってでも連れて帰ります」
と、いうのだった。
サキが胸をそらせて勢いをつけた。
「おじいちゃんとは、ちょっとだけ恋人なんだって」
「サキは黙っていなさい。大事な話なんだ」
スミが少し俯いた。それを見た咲が負けずにいった。
「おじいちゃん、おばあちゃんには変な話をしないだって。これってすごくない?」
咲のあり得ない報告に、夫婦が一瞬虚を突かれた。
「ス、スミさん、そ、それは本当ですか?」
ゆっくりうなずくスミに、夫婦はお互い顔を見合わせた。
サキが再び両手を上げて叫ぶ。
「おじいちゃんの病気が治ったんだぁ! ばんざーい」
スミもつられて微笑んだ。
我に返った息子が、サキの頭をなでながら、
「スミさん、本当にご迷惑ではないので?」
そういって、反応をじっと待っている。
スミは返事をする代わりに、ちゃぶ台の引き出しから数枚の写真を取り出して咲に見せた。セピア色の写真には、仲間たちに混ざって、若き二人が溌剌と映っていた。
(つづく)
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