LIFEコラム 水桶に月は宿らじ

【長編連載小説】 千代能比丘尼物語 第一回

2023/06/17
更新: 2023/06/17

前書き

 鎌倉時代、臨済宗尼僧、安達千代能(ちよの)が、

「千代能が抱く桶の底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず」

 そう謳ったと言う。

 水桶に写る月とは、いったい何の暗示なのか?  すでに知っている読者もいるかも知れないが、もし本当の自分の自分が出現すれば、この世界は水面に映った月のようなものかも知れない。 

 幕府の有力御家人安達泰盛(鎌倉幕府第八代執権・北条時宗の外戚)の一族郎党が霜月騒動で滅びた。だが、その生き残りの一人の娘、千代能が無学祖元禅師のもとで出家して、日本女性として初めて悟りを開くまでの物語である。

 ただ、千代能の生涯、資料は少なく言い伝えは諸説あり、史実を追えていないことを最初に御断わりしておく。悟りを表現するのは難しいが、想像することはできる。それがわが師の導きにより、正しく伝わることを願うものである。

 

 

出会い

京都の僧、懸日は、山奥で気のふれた女、千代能と出会う。彼女は禅という教えに懸日を導く。気の狂った女がどうして禅を知っているのか?

 

 甲高く切り裂さくような女の叫びが、山奥から木霊した。ちょうど、峠の登り坂に差し掛かかったところだ。

 京の僧、顕日は思わず聞き耳を立て、その物悲しい余韻に寒気を覚えた。二十五にしては幼さが残る顔で網代笠を左手で大きく押し上げ、目に滲む汗を袈裟袖で拭う。すでに静まりかえった森奥を睨みつけ、

──さては、旅の女が山賊にでも襲われたか?  だが、はて……。

 どうにも腑に落ちぬのが、あの余韻。助けを求める声とはどこかが違う。例えば、止むに止まれぬ何かが迸り、ついには諦めとなったかのような。

──鎌倉も近いこの辺りに山賊が出るとは、ついぞ聞かぬが。

 先に進むか、引き返すか、逡巡したが、顕日は怖じける心を奮い起こした。

──お経とわずかの干飯しか持たぬ僧を襲う賊も滅多におらぬ。居たとしても、僧の命までを取ることはあるまいし。いずれにしろ、行かねばならぬ。所詮道はここしかなく、行かねばお勤めは果たせぬ。

──仏道の修行者が、恐れてどうする?

 と、引けた腰を立て直し、峠の道に足を踏み入れた。

 急峻な道を登るのに夢中で、半時も過ぎた頃には、もはや女の叫びの事など忘れかけていた。豊かな枝葉から木漏れ日が射し、細道の天蓋を作っている。湿った地面を歩む度に踵が微かに沈んだ。

 弘安十二年(一二八六年)の春である。十年も京のお山で密を学び、やっと近頃、遠出のお勤めを任されるようになった。顕日は、息苦しい叡山での戒めから離れて、僅かながらの自由に心を解き放っていた。

 頂上に近づくにつれ、肩で息をし、膝頭に掌を押し当てて、なんとか足を動かしている。女の叫びはあれっきり、森は静まりかえっていた。春特有の、体の中が疼くような草木の匂いが立ち込め、剣呑な気配は微塵もない。

 頂上が近づくにつれて、雑木が減り、大空が見え隠れしたが、尚も聳え立つ杉や松が足元を暗くしている。

 頂の平地まであと数歩のところで、乱れた息が止まり、足が固まった。薄闇の中、松の古木の根元に、腰ほどの背の苔むした地蔵と、それにへばりつく奇怪な者が見えたからだ。

 薄汚れた袿を纏い、破れた市女笠を足もとに放りだし、若い女がもたれていた。あの叫びの主に違いなかった。

 賊らしき輩は見あたらず、近くに怪しい気配はないが、こんな所に一人で女がいること自体が尋常ではない。

 横顔を見せて撓垂れて、とろんとした流し目でゆっくり顕日を捉える。その緩慢な動きに、怖気を覚えた。

 その女の口角が気味悪く歪む。顕日の腰がますます引けた。

「そこの坊主、食い物をよこせ」

 寄りかかっていた地蔵から体を起こし、獲物を睨む猫のような目で、顕日を睨んだ。

 すると右肩から袿も襦袢もはだけて、片方の丸い乳房が剥き出しだった。

 仰け反りながら顕日の目が吸い寄せられる。乳首が桜の蕾のように紅い。冷や汗が吹き出し、登り坂のせいで乱れていた息が、さらに鞴のように出入りした。

「物乞いではないぞえ。吾と布施してゆけと申す」

 生気の失せた声音に、肌寒さを感じながら女をよく見ると、汚れているが、袿の染め色もかつての艶やかさの残滓、すぼんだ裾も、緒太の草履も、民百姓のそれではない。名家姫君の旅装束を思わせた。

 髪はささくれて、頬骨のあたりに泥がこびりつき、不浄極まりない。しかし白い乳房だけが後光に包まれたように浮き出していた。

「そ、僧をからかうとは不謹慎でござろう。ましてや地蔵菩薩様にそのようなふしだらな格好で、若い女が寄りかかるとは罰当たり。退きなされ。離れなされ。さすれば乾飯など進ぜよう」

 そう叱りつけて斜に構えてはみたものの、二十前後に思える女の、はみ出た乳房から目が離せない。

 女が、片端の目尻を、歪めながら容赦のない大口を叩いた。

「女人が穢れでも持ち、石の像にさえ穢をうつすとでも申すか? そういうお坊も、母の穢れた所から生まれ落ちたであろうに」

 母の穢れた所とは下衆な物言いだ。年若く出家した女知らずの顕日でも、自分がどこから生まれ落ちたかぐらいは知っている。

 だが、地蔵菩薩を単なる石の像だと言うのが気にくわなかった。顕日は丹田に力を込めながらきつく睨んだ。

「地蔵菩薩は天帝にお成りになるお方ながら、あえて地獄に堕ちてまで、人々を救おうと御誓願された菩薩でござる。あなたもおすがりすれば、きっと救われようぞ」

「だから寄りかかっておる。だからすがりついておった。するとお前が現れたのだぞえ」    

 女はそう言うと、からから笑った。開いた口はだらしなく、だが、その笑いを納めて、足腰を震わせながら立ち上がる。近づいてきて、顕日を上目使いに睨みつけた。

「人にかたどられた石像に寄りかかるよりは、お坊の乾飯をもらおうか」

 うっすらと饐えたような匂いが鼻先を掠め、顕日は顔を背けながら絡繰りが動くように、懐の乾飯を差し出していた。

 女はしゃがみこんで乳房を隠そうともしない。乾飯をかき込む姿はまさに夜叉。狐狸に憑かれたような鋭い目つきは、張り詰め過ぎの気の病を表わしていた。

 けれども瞳そのものには濁りもなく、小降りな鼻に品の良ささえうかがえる。顔の輪郭も形の良い瓜実で、その奇怪な隔たりは、皇族の端くれとして育った顕日にしてみれば、女の出自を、もしやと思うに充分だった。

 どんな次第があったのかは分からぬが、ここが凋落の果てだったのだろうか。

 柔肌に惹かれる思いを押し退けて、どうすればよいかを考え込んだ。するとそれを見透かしたように、女は乾飯を咀嚼しながら流し目をよこした。

「お前は京のお山の坊主か?」

 空腹が少しは和らいだらしい。声が低くしわがれ、眼が座っている。顕日は迂闊にも頷いてしまった。

「見たところ、その首から掛けた袈裟文庫に入っているのはお経であろう。そんなものは燃やせばよいものを」

 唐突な事を言う。気の病かも知れぬが、顕日は負けじと口を尖らせた。

「何をたわけたことを。お前のような女に、このお経のありがたさが分かってたまるか」

 肌を見せることも厭わない女に、言葉が宙に浮く。

 女は顕日の言うことなど見下げたように、

「お前は霊鷲山の釈迦の説法を知らぬのか?」

 と、侮蔑の一瞥を放ってよこした。

 霊鷲山を知らぬ僧など希であろう。顕日は胸を反らして言い返す。

「摩訶迦葉尊者が仏陀から、一輪の花をもらった話だが、それがどうかしたか?」

 霊鷲山とは、仏教黎明期に仏陀がお弟子達を集めて説法を行った山のことだ。山頂にある岩が鷲に似ていることからその名がついた。

 その日、いつものように仏陀は、静まりかえる僧衆の前に現れて、普段のように説法をするはずであった。

 ところがその日、仏陀は座につくなり、手にしていた紅い一輪の花をくるくる回し続け、一言も発しなかった。唯々、終始微笑まれるだけなのだ。

 僧衆はその意味が分からず、だが尊者に対する無言の礼を破るわけにもいかず、皆一様に狼狽えていた。

 突如、その静寂を破り、古い弟子の一人、摩訶迦葉(マカ・カショウ)が大声で笑い始める。

 僧衆がそれに狼狽したその途端、仏陀が摩訶迦葉を手招きした。

 仏陀は、彼を近くに招き寄せると、摩訶迦葉が叱られるという皆の心配をよそに、その花を微笑みながら彼に与えた。

 と、いう単純明快な話である。が、顕日には何のことかさっぱり分からなかった。

 女が目尻の端で顕日を捉える。

「知ってはいても、おそらく本当の意味を知らんであろうな」

 顕日はうろたえた。五千数百種あると言われる経典の中で、十年かけて二千種余りを読破したものの、その奥は迷宮。解釈は模糊として、ただ読んだに過ぎなかった。

 戸惑う顕日に呆れたか、女が吐き捨てるように言った。

「不立文字のことであろうに。仏陀の誠の教えは言葉や文字にあらず。それゆえに、そんな経典など燃やしたがよかろうと、申しておる」

「迦葉尊者が、仏陀から花を頂いたことと、経典を燃やせと申すことが、どう繋がるのだ?」

 女は米粒のついた唇をへの字に曲げて、重ねて笑った。

「まったく、まだわからぬのか。坊主は文字ばかり読んでおるから、仏祖の本当の教えを知らぬらしい」

「花がどうして本当の教えになるのだ?」

「仏の悟りとは言葉では伝えられぬもの。仏陀が弟子摩訶迦葉に花一輪を与えた。それは仏と同じ悟りに摩訶迦葉が、辿りついたからであろうに。言葉では、悟りは現わせぬ。ゆえに仏陀が悟りを花で現わしたに過ぎぬ。仏法は、摩訶迦葉に伝わったということだ」

 女は、ことさら天を仰いで勝ち誇ったような流し目を寄越した。

 その眼差しが宙を泳いでいる間、にわかに異変が起きた。

 心が定まらぬ気の病かと言えばそれまでだが、とろんとしていた目の色が青みを帯び、みるみるうちに顔から血の気が失せ、あたりを怯えるように伺いはじめたのだ。

 どんよりした顔が、得も言われぬ清冽さを帯びた。

 そして女は地べたに腰を下ろしたまま、虚空を睨み、再び、あの切り裂くような声を発した。激しく、そして徐々に物悲しく余韻を引く叫び。

 その体から力を抜き、頭を垂れ、おずおずと小さくうずくまった。

「ど、どうしたのだ?」

 顕日の問いなど意に介さず、まるで顕日も目に入らないかのように震えだす。

 そしておどおどと、怯えたように辺りを窺がった。

 不遜な面構えが嘘のように消えている。

「女よ、どうした? 気が触れてしまったのか?」

 顕日の声など聞こえぬのか、よろめきながら立ち上がる。何者かに手引きされたように、森の奥の暗がりを求めて歩き出した。

 顕日は女を掴もうと伸しかけた腕が空を引っかき、女の後ろ姿に誘われた。帯の端が、地を引きずりながら解けてゆくのだ。追いかけてはならぬという声がする。ところが足は勝手に動いてゆく。首筋が泡立ち、こめかみに鼓動が響いた。

 襦袢が、なで肩を滑り落ちたかと思うや、着ている物を脱ぎ捨ててゆく。ついには一糸まとわぬ裸となり、やせ細った後ろ姿は目の覚めるような白肌だった。

 ふくよかで丸みを帯びた尻に、狂おしい煩悩を覚えた。 同時に、女があたかも穢れた衣を脱ぎ捨てたかのようで、現れ出でたる鮮烈な裸体が神々しかった。

 だが、仄暗い道の先で、その蠱惑の体が左へ傾ぎ、乱れた髪を靡かせて不意に倒れてしまう。裸のままぴくりとも動かなかった。

 顕日は面食らった。駆け寄って、白い乳房から臍下の茂みに視線が彷徨うのを、必死にこらえながら竹筒を取り出し、膝の上に頭をのせて水を含ませた。

 袈裟の袖を、風が仰いではためく。裸の女を抱きかかえている、坊主の自分に気づいてぎょっとする。

──抱いてしまえ。どうせ、この女はやがて行き倒れる。女がこの世からいなくなれば、お前の破戒も消えてしまう。抱いてしまえ。

 森のどこかで囀っていた鳥がにわかに静まり、足もとの木漏れ日が激しく動き出した。強くなった風が顔を打つ。息を呑んで周りを見回し、それが顕日を我に返らせた。

 険しい顔を必死に作り、しっかりしろと女に呼びかけた。女は薄目を開けたのだが、その眼差しは先ほどとは打って変わって、しめやかに潤んでいる。歪みのあった唇がすでに直くなっていた。

 力ない声であったが、潤いを帯びていた。

「わ、忘れていた大事を、お坊に出会って思い出した。身勝手で相済まぬが、駄目で元々、もし適うなら……、鎌倉の建長寺まで吾を連れて行っては下さらぬか?」

 断わればこの女はここで死ぬ──そう思った。正気かどうか半信半疑だったが、一介の僧として、断ることなど出来るはずがない。

 自分の袈裟を脱ぎ、女に被せ、背中におぶうと、女は羽のように軽い。その軽さが女のこうむった辛酸を思わせて、顕日の煩悩が束の間消え去った。

 

 

安達家の姫の受難

一族の滅亡と千代能の顛末。そして建長寺へ旅立つ二人。

彼女の悟りの逸話に驚く懸日。千代能の汚れを受けいれようと

決心する懸日。

 

 山を降りるなり、女に出来るだけ負担を掛けぬよう、人里から離れぬ道を選びながら家々を巡った。温かい粥や、古着の布施をいただき、日が暮れれば一夜の宿、鶏小屋と変わらぬ納屋を借りて、女を眠らせた。

 民草の家々はどこも、吹けば飛びそうな荒ら屋だ。その日の食い物にも不自由するほど貧しい。長逗留は気の毒である。

 一宿一飯がせいぜいで、それを三家三日ほど繰り返した。その甲斐あってか、今日は道すがら、時折振り返って背負った女の顔を見ると、徐々に力を取り戻したようで、景色をぼんやり眺めている。声を掛ければ、すぐに目を伏せて、恥じらうように顔を顕日の背に押し付けてしまう。

 女が鎌倉七口の一つ、化粧坂を望んだ。扇ガ谷を越え、亀ケ谷に出て、そのまま建長寺に続いているという。人目に付かぬ道を選んだようだ。顕日はそれを察し、文句も言わず、その険峻を、息を切らせて踏みしめた。

 白旗山の頂上に出る。この辺りは源氏八幡太郎義家が出陣の時に戦勝を祈願して、白旗を立てた場所だ。

 森の屋根が途切れると、出し抜けに明るくなり、小山の頂が広々と二人を迎えた。一本の古松が、大岩の横から幹を伸ばし、見晴らしが良い。緩い谷に枝を張り出している。顕日はその根本に女を下ろした。

 顕日が汗をぬぐいながら一息つくと、女が幹に寄りかかり、口をきいた。

「御坊の背に乗せられて、もうどのくらい?」

 女の口調から微かな落ち着きを感じた。あの暗い山を離れて、人心地が付いたのかも知れぬ。

「おお、少しは元気が出てきたようだ。丸三日は泥のように眠られておられた。歩きはじめてからは、さらに一日目でござる」

「頭の中の煩い声が急に無くなって……」

 顕日は手ぬぐいで坊主頭を拭きながら、笑顔を向けた。

「それは良かった。お地蔵様のご加護でござるな」

 瘧が取れたような女の顔つきから判断して、とにかく今は狂ってはいないようだ。落ち着いて話しが出来そうであった。

 俯きかげんの女が先に口をきいた。

「そう、お坊に花一輪の話を尋ねられて……、まぶたの裏に仏陀が差し出した花が、浮かんだのです。すると、急に、その花びらの深紅の鮮やかさに吸い込まれて……。頭の中のうろんな霧が、瞬く間に消えてしもうた……」

 顕日もまた、その話を聞いた途端、赤子の肌のごとくのきめ細やかな花肌が、自分の脳裏に瑞々しく浮かび上がったのを覚えていた。花弁の奥には仏陀の静けさが、潜んでいるかのようだった。それを畏怖せずにはおれず、顕日は、思わず虚空に向かって、手を合わせたくなったのを思い出した。

 お経を読み解いても、観想をしても、あの時のように鮮やかで質感を伴った像が、浮かぶことなど今までなかった。

 その回想に気が取られていて、女がうなだれていたことに気づかなかった。

「吾のような女に、仏陀が花を下さるなど、あるはずもなかろうに」

 と、沈んだ声でささやいた。

 気落ちさせてはまずいと思い、顕日は沈んだ空気を吹き飛ばすように笑顔を作った。

「苦しみのない人に、仏法など不要なのが道理でござる。仏陀もこの世の四苦八苦を嘆いて出家されたそうな」

 女は寂しそうな笑みを浮かべて黙った。

 聞きそびれていた名を聞くと、驚いたことに安達泰盛の娘、千代能(ちよの)だという。安達家といえば、北条時宗の没後に権勢を得た北条の外戚。ところが昨年十一月ごろか、京にも聞こえた霜月の戦で一族郎党、根こそぎ滅ぼされたはず。

 身の上話をしはじめた千代能の唇が、わなわなと震えだし、目つきが暗く沈んだ。

 顕日はあわてて話題を変えようとしたが、

「一族が滅んで、父は自害。吾は京に逃げる途中、山賊に襲われて、逃げて、あの山で飢えて」

「そ、そう言えば、今はもう春でしたな……」

「ずっと運命を呪って──。奈落に転がった」

「あ、あの谷に広がる瑞々しい緑をご覧なさい。たおやかに春が溢れておりますぞ」

 顕日は、あたふたと腰を浮かせながら、眼下に広がる谷の風景に話題を変えた。

 ちょうど、涼しい風が谷から吹き上げて、千代能が寄りかかる松葉を振るわせ、汗を乾かした。それが良かったか、千代能の唇の震えが少し収まった。

「千代能姫」

「姫などと呼ばれては胸が痛んでかないませぬ。吾は寄る辺もなきただの穢れた女、お坊様さへ拐かそうとした罰当たり。その元々腐った性根が、怨霊を呼び寄せ、父の死と、一族の滅亡を招いたのです」

 千代能のみならず、僧である顕日も、誰もが、怨霊の存在を信じていた。病気も不運も苦しみも全て、魑魅魍魎や化け物のせいなのだ。だからこそ顕日は、その怨霊を打ち払う仏法を学んできた。

 顕日は胸が塞がるような気がして、だが、探してもふさわしい話題が浮かばなかった。苦し紛れに強いて明るく語りかける。

「ところで、拙僧に、禅の話をしてくださらんか」

 千代能が顕日を睨んだ。

「吾のような女にお戯れを。お坊も学問のしすぎでは?」

 千代能が表情を固くした。

「いや、この顕日、十五の時に出家して幾多の経典を読破しても、心の乱れは深まるばかりでな。それであなたの話、摩訶迦葉がいただいた花一輪の、不立文字の意味が気にかかってしょうがないのでござる」

 顕日は千代能に対して、自分が素直に語れることに息を呑んだ。見ず知らずの、その身を苦界に沈めていた女にである。

「あの……話は子供の頃、伯父の師であった無学祖元禅師から聞きましたのです。それを思い出すや否や、あの赤い花、それに意表を突かれて、頭が真っ白になり辺りを見回すと、吾の行いがありのままに見えてしもうたのです」

 千代能が胸の襟を合わせた。顕日の脳裏には、衣服を脱ぎ捨てて歩く千代能の後ろ姿が浮かんでいた。

 すると千代能が遠い目で谷を見下ろす。やがて細い声で語り出した。

「これも聞いた話ではございまするが……」

 顕日はその小さな声に引き寄せられた。

──一つこれに答えてくれ?

「そう、ある師がお弟子に申されて」

──お前の真の自己とはなんだ? おまえが母親の腹から出る前にな、西と東の区別がつくようになる前からあった自己とは、なんだ?

 自らを質すような語り口に、顕日が身を乗り出す。だがその問いに、顕日は答えようがなかった。そんな自分があるとは今の今まで考えもしなかったからだ。

 千代能が声を少し高めた。

「この弟子の僧は、その質問に答えられず、失望落胆して還俗されたそうな。ついに仏法を捨て、山を下りて墓守になったとか。けれども、しばらくして、墓守の仕事にも慣れたある日、庭を掃除していると、ほうきに飛ばされた小石が一本の竹に当たり、コツンと音を立てました。するとその男は、時を忘れて立ち尽くしたそうです」

 顕日は話に乗せられ、目を見開いた。

「やがて、その男は驚くほどの大声で笑い出したのです。半時も笑い続けた挙げ句、晴々とした顔で腹の底から叫んだそうです。一つの振る舞いに、古くからの道が開かれていたと申して、かように詠ったそうでございます」

──悟りは語りを超え、所作を超えた。それは無上の機縁。

 顕日は目を見開いたまま千代能を見返した。話の中身は分かりようもない。意味も通らず、理屈もないように思う。

 にも関わらず、そんな些細なことで、悟りを開いた者がいることに背中がざわついた。ましてや、悟った者が大声で笑い出したなど、顕日の分別をはるかに超えた話だった。

 悟りとは神通を得て、人が神と同じになるくらいの、大変化であるべき──、そう思い込んできた。だのにそれを笑い飛ばしてしまうとは。

 話疲れて寡黙になった千代能を再び背負い、顕日は歩きだしていた。息を切らせ、汗を流すことで、頭の中のこじれをほぐしたかった。小石が竹に当たったくらいで、悟りが開けるなど、起こりえるはずもない。そう思い始めると、千代能の体が急に重くなった。

 顕日の吐き出す息の狭間に、千代能が独り言のようにつぶやく。

「吾は、家と、家の庭しか、知らなかった」

 安達家の娘であればとそうかもしれぬと、顕日は頷く。

「父の腹が裂けて、真っ赤な血が止まらぬ」

 安達泰盛の自害の場面が浮かび、顕日のこめかみが波打った。

「父の首が離れ、転がった。見開かれた眼は地を睨んで」

「わ、忘れなされ。死は、誰にでも、やがてはやって来ることでござる」

 吹き出る汗を拭いもせず、顕日は足を早めた。

「血の臭いが消えぬ……」

「き、気のせいでござる。ほ、ほら、ご覧なされ。すでにこの辺りは、春の色……」

「目の前で、父が死んだのに何も出来なかった。そんな吾に、この世で生きる意味がありましょうか? あるはずもないでしょう?」

 千代能の声に、顕日の心が凍り付く。

「女は生まれながらに穢れていると、申すではありませぬか。吾が身の穢れが怨霊を呼び寄せ、魑魅魍魎となって一族を呪い、父の不運を呼び寄せたのでは? 父を殺したのは吾ではありませぬか? 頭の中で、その声が煩くて仕方がないのです」

「自分を責めても、死んだ人は、戻らぬのが道理でござるぞ」

「顕日殿、穢れとは、いったいなんなのです?」

 顕日には答えられない。仏の教えにも答えが書かれていたとは思えなかった。

「穢れて役立たずの吾など、どうにでもなれと──山賊に襲われ、見栄も恥も捨てて、穢れた女そのものに、望んでなったのです。そうすれば気が楽になるかもと」

 穢れ、呪い、魑魅魍魎、そんなものが本当にあるのだろうか──顕日は考え込みながら自分の背中でしゃくり上げる千代能の体を感じた。

「よい、よい、千代能殿、もうよいのだ」

 顕日は赤子をあやすように優しく揺すった。温かい涙が首筋を伝って来た。

 おそらく、父の自害の理由も良くは知らされていなかったのだろう。 名門の家の娘など、そんなものだ。

 家という寄る辺を失えば、この世で、女は生きられぬのが定め。だがなんの苦労を知らずに育った顕日に、何が言えるだろう。女も知らず、経典を読んできただけの坊主に。仏陀の教えさえ、しかと身につけているかどうかも怪しい自分に。

 

 建長寺は、目の前の扇ガ谷を超えればすぐ目と鼻の先になったが、日が暮れかけた。千代能は体力を取り戻し、すでに顕日の背から降りていた。草いきれに混じる水の匂いに誘われてか、千代能が身を清めたいと、狭隘を流れる川原に降りていった。

 顕日も汗を流そうと、岸辺に降りる。すると急に空が広がり、薄暮があたりを包んでいた。川縁に張り出した瑞々しい枝葉の向こうで、千代能が体を洗っている。柔らかな緑の枝葉を透かして、見え隠れする肌がゆらゆら、果実の揺れのように思えた。

 顕日はそれに取り憑かれた。秘やかに自分の足が千代能に近づいてゆくのだが、それを止められる心はもうどこにも無い。心の臓が寺の梵鐘のように高鳴った。

 千代能が水面に突き出た岩に腰を下ろし、濡れた髪を両の掌で梳(くしけず)る。その髪がたおやかな二つの乳房に絡みついていた。薄暮が急に暗さを増す。顕日はたまらず、水飛沫を激しくたてて駆け寄った。

 逃げもせず、嫌がりもせず、千代能はじっと顕日を見返す。

「穢れた女でもよろしいか?」

「穢れてはおらぬ。穢れてはおらぬぞ」

 千代能が俯いて、諦めを含んだような微笑みを浮かべた。顕日は目眩を感じた。その微笑みを間違いなくどこかで見た記憶があったからだ。それでも、千代能に手を引かれると、顕日は我を忘れた。

 火が付いたように悶える千代能のその声に、母や女官の取り澄ました姿しか知らぬ顕日は、これが本当の女の姿ではなかろうかと、初めて思い至った。

 しかしその激情の最中、頭の片隅では、戒を破ったことえの怖ろしさも過ぎった。

──もう後には戻れぬのだ。いや、今や千代能は我が女。

 頭の中に何もなくなった直後、千代能の諦めたような微笑みが、菩薩像のそれに似ているのだと、ふいに気がついた。

 早瀬のせせらぎは途切れもなく響いている。千代能の胸が自分の涙で濡れている。それに泡を食った。千代能も涙に気づいたか、顕日を掻き抱く。

「なぜお泣きになる? 何が悲しいので?」

「千代能殿、戒を破った自分がふがいない。そしてあなたが愛おしい」

「反吐が出そうなくらい、厭うこの身を愛おしいと?」

 子供のように乳房をなぶる顕日は、顔を上げてうなずいた。

 千代能の声は沈んでいた。

「戒を破ったとは申せ、狂った女を抱いたに過ぎませぬ。吾の穢れを御坊の身に受けていただく、そう思って抱かれたのです」

 目前の黒々とした川も、滔々と流れている。ただ流れているにしか過ぎぬと、千代能が言ったように思えた。

 千代能が静かにつぶやいた。

「御坊とどこかで静かに暮らせたら……」

「千代能殿、そうしようぞ。我はもうお山には戻らぬ」

「顕日殿の子供を宿し、赤子を生んで育て、また女として用なしではない日々が来ましょうか?」

「そ、そうだとも。夫婦(めおと)となりましょうぞ」

 過去をかなぐり捨てて、野に下り生きる。顕日は本気だった。家も、学問も、仏法も捨てて、山の民草になって、千代能と共に隠れ生きる。他に何がいるものか。何もいらないではないか──そう思いつくと、顕日の心が広がった。

 けれども、柔らかな月の仄明かりが、千代能の哀しそうな顔を照らしていた。

「それは、適わぬ夢」

「なんと申される?」

「吾は……、吾は狂い女。いつなんどき、あなたさえも喰い殺すやも知れませぬ」

「そんなことはない。地蔵菩薩様のご加護で、あなたはすでに正気のはず」

「その仏法を、顕日殿は捨てるのでございましょう

 それでも、ご加護がありましょうか?」

 顕日は奥歯を噛みしめ、まなじりをつり上げた。

「いや、我はすでに戒を破ってしまった。すでに僧ではござらぬ。我はあなたの男でござる。あなたは我が女でござろう?」

 千代能が、顕日の頭を掻き抱く。坊主頭に頬をすり寄せる。川の流れが黒々と動いて行く。

 千代能が急に大人びた声で、諭すように耳元でささやいた。

「顕日殿、事実を見なされ」

 顕日は言葉の意味にではなく、その冷静な声に俯いてしまう。

「あなたも仏法を離れては、生きてはゆけないのではありませぬか?」

 千代能は見抜いているのだ。顕日が皇室とお山しか知らない事を。

「吾はやはり、尼になろうと思うのです。無学祖元禅師の下で出家して、悟りの法を嗣がれた方に導かれ、吾が穢れ、吾が狂気、それを根の所から拭いたい」

「嫌でござる。あなたを尼僧になぞ、させませぬぞ」

 顕日は目を剥いて、千代能に再び覆い、だだをこねるように被さった。

 千代能がまたしても受け入れる。

 夜のしじま、水音に月のほの明かり。川の流れも顕日もやがて海にたどり着く。眠りを妨げるものは何もなかった。

(つづく)