【原文】
子曰:「君子(1),不重(2)則不威;學則不固(3)。主忠信(4)。無(5)友不如己者(6);過(7)則勿憚(8)改。」
【注釈】
(1)君子:この一節全体を導く言葉である。
したがって、「君子」の後で一度区切り、ここで読点を置くべきである。
(2)重:重々しく落ち着いていること、すなわち荘重であることをいう。
ただし、「荘重」という言葉は表面的な態度を形容するにすぎず、実際には、徳を重んじることが求められている。
徳が高ければ、自然に人々から重んじられ、必ず威厳が備わる。
「威徳」という言葉も、まさにこの意味である。
(3)学則不固:「学んだことが堅固にならない」という意味に解釈する。
これは前の句とつながっている。
重々しさがなく、徳行が浅ければ、威厳は生まれず、学んだことも堅固にはならない。
孔子は道を伝え、学問を授ける際に、徳を根本としていた。
そのため、その人が書物を読んだことがあるかどうかではなく、言動において仁・孝・忠・信を実践できるかどうかを見ていた。
それを実践できるならば、学問があるとみなされる。
実践できないのであれば、たとえ聖賢の書物を熟読していても、本当に学問を身につけたとは言えない。
これが「不固」、すなわち学びが堅固でないという意味である。
(4)主忠信:「忠」と「信」を根本とするという意味である。
主として、社会の中で人と接し、物事を行う際には、忠実さと誠実さを第一とすべきことを強調している。
(5)無:これまで一般的には、この「無」は「してはならない」という意味に解釈されてきた。
しかし、ここでは「ない」という意味に解釈する。
「無」は本来、「ない」という意味だからである。
(6)如己:一般には、「自分に及ばない」と解釈されている。
一方で、別の解釈もある。
それは、「自分に似ていない者とは、自分と同類ではない者であり、いわゆる『道が異なれば、共に事を謀らない』という意味である」というものである。
この解釈では、「如」を「似ている」「同類である」という意味に取っている。
この後者の解釈のほうが、孔子の本来の意図に合っていると考える人もいる。
しかし実際には、「無友不如己者」の「無」を「してはならない」と解釈するならば、どちらの解釈もあまり合理的ではない。
自分より劣る者とは友人になってはならない、とするならば、それは傲慢である。
また、自分と志や歩む道が異なる者とは友人になってはならない、とするならば、それは心が狭い。
そのような考えが、どうして孔子の本意であるはずがあるだろうか。
また、どうして天下を思い、高い人格を備えた君子にふさわしいと言えるだろうか。
したがって、「無友不如己者」は、
「自分に及ばない友人など一人もいない」
と解釈すべきである。
この解釈こそが、君子の徳行にかなっている。
(7)過:過ち、失敗を意味する。
(8)憚:「たん」と読み、恐れる、怖がるという意味である。
【訳文】
孔子は言った。
「君子は、重々しさがなく、徳行が浅ければ、徳に裏づけられた威厳を持つことができない。
また、学んだ聖賢の道理も、しっかりと身につかず、表面的な理解にとどまってしまう。
人と接し、物事を行うときには、忠実さと誠実さを根本としなさい。
あなたの友人には、それぞれ異なる長所や優れた点があり、自分より劣っている友人など一人もいない。
だからこそ、自分にも必ず誤りがある。
過ちを犯したならば、面目を失うことを恐れず、勇気をもって改めなさい」
【解説】
「無友不如己者」の本来の意味を詳しく解き明かす
多くの人はこの章を読むと、あるいは大多数の解釈では、次のように理解する。
孔子は、君子が備えるべき品徳を示しており、その内容には主に、重々しさと威厳、真剣に学ぶこと、慎重に友人を選ぶこと、過ちがあれば改めることなどが含まれている、しかし、このような理解、とりわけ友人関係についての解釈には、他人を排斥し、仁愛や謙虚さを欠くおそれがある。
それは君子の徳行に合わず、聖人である孔子の本来の意図にも反している。
私たちが理解しなければならないのは、この書物は幼児向けの初歩的な教材ではないということである。
主に対象としているのは、すでに社会に対して責任を果たしている、あるいはこれから果たそうとしている成人である。
そのような人々には、すでに少なからぬ友人がいると言ってよい。
このような状況において、孔子は弟子たちに、友人には謙虚で親切に接するべきだと教えているのである。
自分は大した人物であり、他人より優れているなどと思ってはならない。
むしろ、自分の周囲にいるすべての友人には、それぞれ異なる長所や能力があることを理解すべきである。
完璧な人間などおらず、誰にでもそれぞれ不足しているところがある。
したがって、自分より劣っている人など一人もいないと考え、謙虚であることを知らなければならない。
また、自分に過ちがあることを認めれば面目を失うのではないかと恐れ、その過ちを改めないようなことがあってはならない。
これこそが、「自分に及ばない友人など一人もいない。過ちがあれば、改めることを恐れてはならない」
という二つの句が、続けて語られている理由である。

ここで私たちは、友人を選ぶ際には慎重であるべきだという考えを否定しているのではない。
そうではなく、孔子はここで成人に対する教育を語っているのである。
成人であれば、友人関係についてすでに基本的な善悪の判断を備えており、むやみに友人を作ることはない。
多くの場合、友人として交わるのは志や目指すところを同じくする人々である。
しかし、すでに友人となった人々の中でも、それぞれに長所があり、能力も異なり、見識にも高低がある。
したがって、友人に対しては親切であり、謙虚でなければならない。
まして、孔子はかつて、「三人で物事を行なえば、必ずその中に自分の師となる人がいる」と述べている。
また、「その人の資質に応じて教える」「教えを受ける者を種類や身分によって差別しない」とも語っている。
したがって、孔子が誰かを排斥したり、差別したりするはずはない。
むしろ、共に歩む人々の中には、誰であっても、自分が及ばない部分を持つ人がいると考えていた。
そして、ある面においては、その人が自分の師となり得ると考えていたのである。

それなのに、自分より劣る人とは友人になれない、あるいは友人になるべきではないと、どうして考えるのだろうか。
たとえ志が異なり、歩む道が異なる人であっても、善意をもって接することこそ君子の道である。
君子とは、徳によって人を感化する者ではないのか。
天下を心に抱く者ではないのか。
それなのに、どうしてその心がこれほど狭いはずがあるだろうか。
明らかに、このような解釈は聖人の教えにかなっていない。
第一章と比較すれば、内実は一致している
それでもなお疑問が残るならば、第一章に戻って比較してみてほしい。
その内実は、驚くほど一致していると言える。
なぜなら、第一章にもすでに「君子」が登場しているからである。
そして第八章は、実は冒頭の第一章に呼応し、その内容を展開するとともに、ここまでの内容をまとめたものなのである。
したがって、その内実が一致するのは当然である。
初めてこのことに気づくと、非常に意外に感じられるかもしれない。
第一章には、次のようにある。
孔子は言った。
「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや。友あり、遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」
冒頭からすでに「君子」が語られている。
そしてこの章において、君子が実践すべきいくつかの内容が、すでに示されているのである。
まず、君子は絶えず聖賢に学び、人としての道を身につけなければならない。
これが「学」である。
さらに、学んだ人としての道理を、日常生活や仕事の中で、いつでも、どのようなことにおいても実践しなければならない。
何度も繰り返して実践し、学んだ聖賢の道を具体的な行動へと変えていく。
これが「時にこれを習う」の本来の意味である。
それだけではない。
さらに、喜んでその実践を行わなければならない。
これが「また説ばしからずや」の意味である。
したがって、
「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」
という言葉を平たく言えば、これまで繰り返し強調してきたように、孔子のこの言葉の本来の意味は、
君子は道を修めることを楽しみ、常に善徳、すなわち仁・孝・忠・信などのさまざまな人倫道徳を実践することを喜ぶべきである、
ということである。
これこそが、本当の意味で学問をするということである。
それは、どれほど多くの書物を読んだか、どれほど多くの知識や見聞を持っているかとは関係がない。
だからこそ、第六章で孔子は、
「行いて余力あらば、則ち文を学べ」
と述べたのである。
また、第七章では弟子が、
「たとえ本人が『まだ学んでいない』と言ったとしても、私は必ず、その人はすでに学んでいると言うだろう」
と応じたのである。
ここで強調されているのは、徳行の実践を根本とし、それを先に置き、読書や文章、文化を学ぶことは補助的なものとして後に置く、ということである。
そうでなければ、たとえ聖賢の教えや書物を暗唱できるほど熟読していても、本当に学問があるとは言えない。
反対に、その人の徳行が聖人の教えにかなっており、家庭では孝悌を実践し、外では忠信を守っているならば、たとえその人が本を読んだことがなく、学校で教えを受けたことがなくても、すでに学んだ人とみなすことができるのである。
したがって、第一章の最初の一句は、君子にとって最も重要であり、何よりも先に覚えておくべき内容である。
そしてそれは、本章における君子への第一の要求である、
「君子は、重々しさがなければ威厳がなく、学んだことも堅固にはならない」
という言葉と、その内実が一致し、互いに呼応している。
ここでは、君子に対して徳を重んじることを求めている。
徳を重んじてこそ、徳に裏づけられた威厳が生まれる。
また、徳行を身につけてこそ、聖賢の書物を本当の意味で堅固に理解し、自分のものとすることができる。
そうして初めて、口では立派なことを言いながら、行動では別のことをする偽君子にならずに済むのである。

では、第一章の第二句はどうだろうか。
そこでは、遠方から訪ねてくる友人を喜ぶことについて、
「友あり、遠方より来たる、また楽しからずや」
と語られている。
この言葉もまた、第八章の
「自分に及ばない友人など一人もいない」
という言葉に呼応している。
友人には一人として自分より劣る者はいないという心構えを持ってこそ、友人の訪れを喜び、その長所に学ぶことができるのである。
さらに、第一章の第三句である、「人知らずして慍みず」とは、自分より見識の劣る人に対しても、不機嫌にならないという意味ではないだろうか。
改めるべきなのは自分自身である。
友人の不足ばかりを問題にし、その人を排斥してはならないのである。
このように、第一章と第八章の内実は一致しており、互いに呼応し、互いを裏づけている。
第一章から一貫して、君子がどのように内面を修め、徳を重んじ、すべての人に善意をもって接するべきかが説かれている。
したがって、友人に対してだけ、自分より劣る人とは交際してはならないと勧めているはずがない。
結局のところ、この書物について生じているさまざまな解釈の違いや誤解は、冒頭の第一句からすでに読み違え、「学」と「習」という二つの字の意味を誤って理解したことに由来しているのである。

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刻まれた徳育の根幹 論語の真義 学而編1
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真の学問とはなにか 論語の真義 学而編7
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