韓信――(2) 項羽の出世【千古英雄伝】

死物狂いとなった楚軍は、稲妻のようなスピードで秦軍を取り囲み、全軍が勇猛で多勢の敵に当たりました。項羽は兵士の先頭に立って奮戦し、楚軍は戦えば戦うほど勇気が出てきて、秦軍を恐怖に陥れて、九戦九勝しました
2022/01/23

韓信――(1) 剣を持って従軍する【千古英雄伝】

戦国時代の末期、割拠していた諸侯国に取って代わり、秦の始皇帝は天下統一を果たしました。しかし、始皇帝は在位三十七年、巡行中に沙丘(訳注:現在の河北省邢台市広宗県)で急逝しました
2022/01/17

絵本で解決、幼児教育の悩み 第2話:絵本との偶然の出会い

中国出身のこの母親は、夫に付き添って来日したものの、日本の教育については全く知識がなく、子どもの本といえば、世界的に有名な童話や神話など、絵がきれいで、親が子どもに買い与える古典的な本という印象が強かったそうです。

岳飛――岳飛の物語(二)【千古英雄伝】

岳飛の軍歴は北宋の宣和4年(西暦1122年)に始まる。 当時、真定(現在の河北省)宣撫の劉韐徵は「戦う勇気のある武士」を募集しており、19歳の岳飛は応募し、国に仕える道を歩み始めたのである。
2022/01/12

【佛家物語】釈迦如来の最初の弟子

ゴータマ・シッダルタ(釈迦)が出家した当初、父の浄飯王(シュッドーダナ王)は釈迦を追いかけ、王室に帰るように説得するため、警護を派遣しました。しかし、釈迦は父親の要求を断固として拒否し出家しようと決心しました。
2021/12/29

第7話:3つの重要な要素【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】

三才とは、天、地、人のことを指しており、この宇宙を構成する基本的な要素です。三光とは、太陽、月、星を指し、天上にて光を発する三つの物体のことで、地球上の主な光源でもあります。

【三国志を解釈する】(14)忠義か不義か 献帝を取り巻く人々が現した義

呂布に従った陳宮は曹操に捕らえられたが、曹操に降伏せず、死ぬまで後悔しなかった。これは、国に有力な君主がない時、義の果たし方だ
2021/12/15 劉如

世界中のピラミッド(10)西アジア・メソポタミア

「ウルクの白色神殿」は人工的な高さ12メートルの不規則な高台の上に建てられています。高台の側面は斜面となっており、模様が彫られています
2021/12/14

岳飛――岳飛の物語(一)【千古英雄伝】

岳飛(西暦1103〜1141年)は、北宋から南宋時代の変わり目に生まれ、相州湯陰(現在の河南省)の出身である。彼が生まれたとき、家の上に大きな鳥が飛んできたので、家族は彼を「岳飛」と名付け、字は「鵬挙」とした。
2021/12/13

【三国志を解釈する】(13)曹操は天 劉備は人 孫権は地 三国志演義が伝えた三才の文化観

董卓が廃帝を強行したことは、「帝は帝ではなく、王は王ではない」という予言が完全に当たったことを意味します。では、歴史が天命によって定められているのであれば、漢の末期に三国が共存したのはなぜでしょうか。
2021/12/09 劉如

【三国志を解釈する】(12)乱世の難題 答えが徳に潜む

人々が怒りの声を上げようと上げまいと、社会全体は意識的に正義を実践しており、董卓の行動は当然ながら非正義とされた。礼儀や法律は状況に応じて変わることがあるが、人間としての道徳感は変わることはない。古代人は明白に生きていた
2021/12/02 劉如

【三国志を解釈する】(11)廃帝を叫ぶ董卓を盧植が論破

宦官に拉致された漢の少帝と陳留王を、官吏や将軍が見つけ出した後、西涼の刺史である董卓は、混乱に乗じて、皇帝を守るという名目で、大軍を率いて少帝のもとへ直行しました
2021/11/08 劉如

第6話:身近な人に対して孝悌であること【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】

人にとって最も重要なことは、まず両親を敬い、兄弟を愛することの道理を理解し、その方法を学ぶことです。次に、日常生活における知識を身につけることも必要不可欠です。ここでの知識とは、数字の変化を理解する力、計算する力、文字や

【三国志を解釈する】(10)童謡が予言していた皇帝の運命と董卓の死 

「帝は帝にならず、王は王にならず、千乗万騎は北邙山を追い駆ける」当時、子供たちに歌われたこの童謡は漢霊帝の死後、最後の二人の皇帝の運命を予言していた。作者は天意の存在を暗示している
2021/10/21 劉如

第5話:人間としての最初の基本的な2つの条件【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】

『三字経』ではこれまで、教育の本質に焦点を当ててきましたが、前話からは、なぜ人は教育を受けなければならないのか、学ぶことの重要性など、直接、子供たちへの指針となる具体的な内容へと移りました。 前話で紹介した「人不學、不
2021/10/11 劉如

【佛家物語】釈迦牟尼佛が弟子にしてもらいたかったこと

釈迦牟尼仏の時代に、大愛道という尼僧がいました。 ある時、大愛道は釈迦牟尼仏のところに来て、五體投地(地面にうつ伏せになり礼拝する最高の礼拝手法)をした後、「師尊(直下の弟子の師に対する呼び方)が、私たち弟子や衆生を末永く救済してくださることを願っていますので、師尊の肉体のお体(この世の身体)を大切にして、永遠に生きられますようにお願い申し上げます」と言いました。
2021/10/01

【三国志を解釈する】(9)中国人に義を教えた「三国志演義」

古代の人々は、「天経地義」という規範を信じ、それは天の理と人の道に合致するという意味に限りません。『三国志演義』では、「天経地義」のもう一つの深い意味を明らかにしています。それは王朝の交代は、天が主導を行い、地が演じる役割を果たすことによる結果だということです。
2021/09/25 劉如

第4話:礼儀を習うことの重要性とは【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】

天然の美質を持つ玉石も、磨かなければ、役に立つ器物には成り得ません。それは人間も同じで、生まれながらに優れた素質を持っていても、努力して学ばなければ、人としての道理がわからないものです。子供の頃には、良い先生や友達と親しくし、教えやアドバイスを素直に受け入れ、人との接し方、物事への対処の仕方などの礼儀を身につけておくべきです。

【佛家物語】人を外見で判断してはいけない

釈迦牟尼仏の時代に、とても醜い弟子がいました。修行に励んでいましたが、その容姿が見苦しかったため、他の弟子たちからは、常に軽蔑されていました。ある日この醜い弟子は、仏法を聞くために、釈迦牟尼仏のところに行きました。
2021/09/23

「十常侍」の専横 張飛 腐敗役人を鞭打ち

張飛が怒りで督郵に鞭打つ話は、『三国志演義』の第二回に出てくる有名な話です。この話は、張飛の正直さと正義感、民衆のために悪を排除する勇気を示すためだけではなく、漢霊帝時期に、「十常侍」と呼ばれる宦官たちが宮廷を掌握して好き勝手に行動し、皇帝を欺き、忠誠心の強い官吏や将軍を陥れたり排除したりする現象を詳しく描写している典型的な場面です。しかし、その目的は、暗い現実を暴くことではなく、後漢がやがて分裂する危機に直面している様子、及び英雄たちが続々と現れることを予感させることにあります。
2021/09/20

【佛家物語】釈迦牟尼仏が選んだ悟りを開く場所

唐代の玄奘三蔵(三蔵法師)は自らの著作である『大唐西域記』で、釈迦牟尼仏が選んだ悟りを開く場所についてこのように記しています。
2021/09/14

【三国志を解釈する】(7)劉備 誓いを破り、大義を失い、白帝城に死す

劉備と張飛との出会いに続いて、ついに関羽の登場です。張飛の声は雷のごとく、勢いは奔馬のごとくというものでしたが、関羽の相貌は神将のごとく、一身に神威を帯びており、一見しただけで人々に畏敬の念を覚えさせるものでした。関羽は身の丈9尺(後漢の尺度では約208cm)、髭の長さは2尺(同じく約46cm)、熟した棗(ナツメ)の様な紅顔、唇は朱を塗ったよう、切れ長の目、太く逞しい眉を持ち、その風貌は堂々たるもので、威風は凛々たるものでした。
2021/09/13 劉如

【佛家物語】修行の成就は師父のおかげ

釈迦牟尼佛がいた時代に、目犍連(もくけんれん)と呼ばれる釈迦牟尼佛の弟子がいました。目犍連の身に多くの神通力が現れたため、修行僧の間ではとくに有名でした。しかし、彼は神通力が現れたことを誇りに思わず、修行において現れた様々な神通力を、すべてその師父である釈迦牟尼佛のおかげとしました。
2021/09/05

【佛家物語】恐怖心のない釈迦牟尼佛

ある日、釈迦牟尼佛は古代インドのマガダ国へやってきて、救うべき衆生を救うために佛法を伝えました。当時、釈迦牟尼佛は摩鳩羅山に住んでおり、侍者も阿難ではなく、伽波羅でした。 ある晩、時はすでに遅く、小雨が降り、時折稲妻も光る頃、釈迦牟尼佛は依然と野外で当時の「経行」という修行方法で修煉していました。
2021/09/02

第3話:教育者と生徒の務めとは【子どもが人格者に育つ教え「三字経」】

子供を養うにおいて、生きていく上で必要な物資だけを与え、きちんと躾をしなければ、それは親としての過ちです。また同様に、教師が生徒への教育について、厳しくしなければ、それは教師としての怠りです。

【三国志を解釈する】(6)張飛と劉備 剛と柔の組み合わせ

初めて読者の前に姿を現し、劉備と出会った張飛が、『三国志演義』ではこのように描写されています。
2021/08/31 劉如

【三国志を解釈する】(5)劉備は腐れ儒者ではなかったのか?

前章では、黄巾軍が反乱を起こし、張角軍が幽州(注1)の国境に攻め込んできたので、状況は危機的であったということを紹介しました。総督である劉焉は、全県に義勇兵を徴集する召集令状を発行し、その召集令状が涿県(注2)に届いたということです。そこで、劉備が正式に登場することになり、「桃園結義」の物語が始まりました。
2021/08/28 劉如

【三国志を解釈する】(4)黄巾の乱 道術を悪用した張角が残したもの

"霊帝の末期、黄巾賊が蜂起すると、各州、各郡はそれぞれの兵を動員し、劉備は部下を率いて鄒靖に赴き、実力で黄巾賊と戦い、安西の尉官を解任させました。これは歴史書『三国志』の中で、劉備が賊を倒して安西府の尉官になったことを記した原文です。これは、黄巾軍の真実は国賊と判断されており、中国の近代史教科書で歪曲された農民の蜂起ではなかったことを示しています。「州・郡の志願兵」こそ歴史書で認識されている義勇兵であり、各州や郡の政府が組織したボランティアで、官軍とともに黄巾賊と戦ったものです。
2021/08/26 劉如

【佛家物語】釈迦牟尼論「4種類の馬」

ある日、釈迦牟尼佛は王都の竹林に座っていた。 鉢巻を捧げに出かけた弟子たちは、一人一人が堂々として心安らかに修道院に戻ってきた。 佛陀は金剛杵を結び、優しく語りかけました
2021/08/17