天経地義 天が主導し 地が演じる
古代の人々は、「天経地義」という規範を信じ、それは天の理と人の道に合致するという意味に限りません。『三国志演義』では、「天経地義」のもう一つの深い意味を明らかにしています。それは王朝の交代は、天が主導を行い、地が演じる役割を果たすことによる結果だということです。
したがって、「天経地義」とは、単なる道徳的な基準だけではなく、天と人の一体性という宇宙観の反映でもあります。天象を理解し、天意に従い、人道に合う人であってこそ、「天経地義」の意味を真に理解することができ、古人が語った「人事を尽くして、天命を待つ」の意味が理解できます。このような人であってこそ、決意を持って後悔しないように、率直かつ正直に生きることができます。
「経」は、儒家、道家、仏家の経書を指し、特に儒家では神が人間に伝えた義理や人間としての道理を指します。実は道家にも、仏家にも、その真理は天から授かったもので、なので、「天経地義」「天人合一」と言われています。
話は今の「ビジネス社会」に変わりますが、「経営」というのは、神から人へと伝えられた「経」、つまり変わらぬ道義や真理で、会社を指導し、運営していくことです。これにより、会社の経営が益々良くなり、順調になっていきます。正しい道義が社会に満ちる道徳的な社会こそ真の経済社会です。
そうすれば、企業文化を営むことができます。そして必ず天の助けが得られるほどの功徳のあることです。人にとって、お金はもはや個人の享楽のために使われるものではなく、会社全体、さらに社会全般のものとなり、一時的に自分の処に保管や運用のために渡されているに過ぎません。
このように無私の心を持ち、広い視野を持っていれば、高い展望に達し、大きな会社を作ることができるでしょう。自分の力のベストを尽くし、成敗を天に任せ、広い度量を持っていれば、体は忙しくても、心はいつも平穏になるでしょう。
『三国志演義』は「天経」の視点に立ち、「地義」を語るものですから、天象、予言等、様々な具体的な物語を通して、三国の歴史の実質的な意味を語ることは必然でしょう。時間、場所、主人公、誰が何をして、どんな結果になったかを普通に語るだけなら物足りません。
著者は、天象や予言を『三国志演義』の伏線として描出し、同時に事件の中心にある人物の考えを解き明かします。つまり、「伏線」の存在を意識させながら、古人の問題意識のあり方を具体的に示しています。古人が問題に遭遇した場合、どのように考え、どのような基準で行動し、選択していたのか、古人の考え方が具体的に示されるのです。これは、歴史書にはできないことです。
このように、著者は、最初に漢末期に宦官が霊帝の朝廷を支配するという背景を語る時、一定の幅を使って、様々な天変地異を描いています。そこには漢王朝の皇帝と大臣が徳を失うことを積み重ね、滅亡を招いてしまうことが予告されています。
人間の世界では、間もなく三国時代が始まり、張角が反乱を起こし、政府が兵士を募集し、英雄たちが登場し、劉備、関羽と張飛が出会い、桃園結義の物語を後世に残しました。
この物語は、国家が大きな困難に遭遇した時の男の考え方や行動を描いたもので、張飛が劉備に言ったセリフもそうですが、「男が国のために貢献しないのに、なぜため息をつくのか?」というのは、古代の男性らしい思考原則である「国のために貢献する」の反映です。
これが古人の言った「義」です。読書も勉強も「義」のためで、義理を知るためです。「国が困っているときは、国民全員にも責任がある」という諺のように、これは伝統のある義理の継承の現れです。
古人は、物事がうまくいかない場面に遭遇しても、いつも慌てずに、生死と義理の選択を明確にし、生死に悔いがないようにしていたのです。困難な時代には、善と悪との選択の前には、義の原則に従わなければなりません。これは悪のキャラクターであっても避けることはできない選択です。そこに義が鮮明に示されるのです。
『三国志演義』で道を伝え 人の疑惑を解く
著者は三国志を題材に、天を伏線に、義を原理にし、小説のように物語を語り、道を伝え、疑惑を解き、教育者の道を実践しています。この著作は、著者が人間の伝統文化に捧げる素晴らしい教本、人間に振る舞うべき行動を教える素晴らしい教本になります。
いつからか中国では先生の授業の内容を「講義」と呼ぶようになりました。授業中に「義」の道理を伝えるのは教育の根本のはずですが、今日では、その意味合いはすでに失われています。
古代の教育とは、「道」を伝えることを本職とし、教師の仕事は、生徒に、人間であるべき道理や義理、行動を教えることを目的としており、具体的な問題に遭遇した時に、学んだことを応用して、善悪の判断基準や実践での問題対処、正確な選択と決断を教えることでした。
孔子が弟子を連れて世界中を回り、質問に答えていく過程こそは、道を説くことですし、同時に様々な問題に遭遇した弟子たちのために疑惑を解く過程でもありました。これが古代の教育の実態です。『三国志演義』は、数多くの出来事や人物を通して、人生の様々な問題に実際に答えることによって、人々のために疑惑を解決するのです。
例えば、国王が仁義の心を持つならば、敵軍が降伏したとき、直ちに許されるのか。董卓のように兵を集め、理由もなく大臣を脅し皇帝を退けさせるようなことをやったとき、何が正しくて何が間違っているのか。何を基準に判断すべきなのか、どのように決断すべきなのか。劉備が同族の事業を奪うのに忍びないとき、軍師の龐統が、「道理に背いた方法で取り、道理にかなった方法で守る(逆取順守)」との教訓を教えるのはなぜなのか。忠誠心と親孝行が両立しないとき、光を捨てて闇に徹し、親孝行だけを考慮することが正しかったのか。
「身は曹氏の陣営にいながら心は漢王朝のことを考えている」という話は、この問題を解明しています。この話を理解すれば、古代人の考え方が理解できます。「仮に母と妻が同時に溺れたら、誰を先に助けるべきか」という問題は、古代には決して発生しないことでした。
古代において、女性は義を理解する妻であり、決して抑圧の対象ではありませんでした。義を理解し、夫の相談に乗る女性の多くは、男性をも超える洞察力を持ち、賞賛されていたのです。これは『三国志演義』でも随所に出ています。義をもって問題に対処する事例も書き出されています。
『三国志演義』を理解すれば、男性も女性も、正義感も持ち、豪放磊落、剛毅果断な生き方ができるようになります。現代社会において、教育、法律等に現れるあらゆる厄介な問題も、由来する実質的な根源を見極め、納得する結論を導き出すことができます。
五千年もの歴史において、治世と乱世を何度も何度も繰り返し、さまざまな社会問題が起こり、どう解決すればいいのか、何を基準にすればいいのか、『三国志演義』に、様々な解決方法が示されています。
古くから受け継がれてきた正統な教育を受け、伝統的な義理を理解していれば、国事や家庭問題への対処法も分かってくるものです。また、現代の社会の混沌を一目で見抜くことができ、はっきりした人生を送ることができるようになります。
これからは、古代人の考え方を示しながら、三国志の物語を、一つ一つ紹介していきます。
天の意志に従い、人間社会の道を説くという著者の目的を理解した上で、前回の続きを話します。前回は、漢霊帝が死に迫り、各地で反乱が起き、支配者のいない局面が現れるという話をしました。この過程には、大きな出来事が二つ起きました。
1つは、宦官によって新皇帝が強奪され、夜の北邙山を逃走中に、玉璽を紛失し、有名無実の皇帝となりました。
もう1つは、董卓が都に入り、若帝を強制的に廃し、漢献帝を擁立する過程です。この過程において、「皇帝でない皇帝、国王でない国王」という洛陽の童謡を予言に見立てて、皇帝の必然的な運命を告げることで、大臣がどのように道と義を実践すべきかを示しているのです。新皇帝の死であると詳細に説明したこの物語では、神の意志と人間の道義の両方が明らかにされています。
(続く)
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