張飛が怒りで督郵に鞭打つ話は、『三国志演義』の第二回に出てくる有名な話です。この話は、張飛の正直さと正義感、民衆のために悪を排除する勇気を示すためだけではなく、漢霊帝時期に、「十常侍」と呼ばれる宦官たちが宮廷を掌握して好き勝手に行動し、皇帝を欺き、忠誠心の強い官吏や将軍を陥れたり排除したりする現象を詳しく描写している典型的な場面です。しかし、その目的は、暗い現実を暴くことではなく、後漢がやがて分裂する危機に直面している様子、及び英雄たちが続々と現れることを予感させることにあります。
督郵とは?
この物語を紹介する前に、まず督郵とは何の官職かを理解しなければなりません。督郵は、漢時代に郡の長官である太守のもとに属する小さな官職ですが、各郡の役人を監視したり弾劾したりする権限を持っています。彼らは、太守に代わって郡の役人を検査し、刑罰を確認し、司法の運営を監視する役割を担っていました。各郡はいくつかの部分に分かれていて、それぞれに督郵が設置されています。(例:西部督郵、東部督郵など)。漢霊帝の時代には、督郵に務める人々の多くは「十常侍」の地方での手先となりました。彼らはその権力を利用して、各郡の役人を脅し、賄賂を集め、善良な人々を強圧しました。
誓いを果たし、民衆の利益を侵さず劉備
劉備は安喜県に赴任してわずか1か月で、民衆の利益を一切侵さないことによって、民衆に感激され、尊敬されるようになりました。劉備が務める県尉は、警察署長のように治安と秩序を守る官職です。張飛と関羽は、毎日劉備から離れず、一緒に食事をしたり、生活をしたり、劉備の警備に付いていて、苦労を厭わない日々でした。張飛と関羽は、劉備に忠実に従っており、その権限を使って民衆を圧迫したり、金をかき集めたりすることもなく、県の治安を担っていました。彼らは、「上は国に報い、下は民に平和と安定を与える」という誓いを真に果たし、典型的な忠誠心と義理人情を持つ役人でした。そのため、民衆に感謝されたのです。
劉備を罪に陥れ、賄賂を強制要求督郵
しかし、劉備が赴任して4か月にもなっていない時に、朝廷は、黄巾賊との戦いで武勲を立てたことで県の重臣に任命された者を、すべて罷免するという不可解な決定を下しました。劉備はそのうちの一人です。この勅令は、「十常侍」が皇帝を欺いて計画した結果です。皇室の役人にとって、官職は富を求めるための手段しかありません。劉備のような、賄賂を求めず、お金を払わず官職についた者は、彼らにとって目障りのような存在で、排除しなければなりません。その結果、まず地位の低い県の役人に手を出し、劉備も逃れませんでした。
そして、督郵は劉備のいる県庁に来て、いわゆる査察業務を行うように命じられました。劉備は礼儀正しく迎えたのですが、督郵は非常に傲慢、無礼で、県庁に到着したら、まるで誰もいないかのように劉備を無視して長い間立たせていました。口を開くまでに時間がかかりましたが、話すとすぐに彼の出自について尋ねました。劉備は、自分は中山靖王の子孫で、涿郡で30回以上、黄巾賊との戦いを経験し、ささやかな戦功を立てて、今の官職を得たと答えました。この話を聞いた督郵は、大きな声で、「王族を名乗り、功績を偽っているあなたのような汚職役人を排除するように、今、朝廷は勅令を下しました」と怒鳴りました。
劉備が県庁に戻り、他の役人と話し合ったところ、督郵が怒った意図はただ賄賂を集めようとすることにあるのだと全員が判断しました。しかし、劉備は賄賂を払うことを拒否しました。
翌日、督郵は劉備の配下の役人を拘束するように命じ、劉備が民衆に危害を加えたという偽りのことを証言させ、劉備を陥れるように仕向けました。自分の役人を解放してほしいとの懇願をもとに、劉備は何度も督郵に会いに行ったのですが、入口の衛兵に引き止められました。
民衆を弾圧した悪を取り除く張飛
督郵が劉備に危害を加えたことを聞いた民衆は、総督の泊まった宿に来て劉備を助けようとしましたが、衛兵に追い払われてしまったようです。馬に乗っている張飛は宿の前を通ったら、そこに40〜50人の老人が泣いていたのを見たため、その理由を聞いたところ、督郵が賄賂を得るために役人を縛り、民衆を虐げていたことが分かりました。頭に血が上った張飛は、一直線に中に入り、役人を恫喝している督郵を捉え、「この一般民衆をいじめた悪党野郎が、私が誰かを知っているか?」と叫びながら、督郵の髪の毛をつかんで宿から県庁前まで引きずり出しました。張飛は督郵を戒めるために、彼を馬をつなぐ杭に縛り、柳の枝を十何本も使って、力いっぱい鞭打ちました。
騒ぎを聞いた劉備は、張飛が督郵を鞭打ったことを知ってショックを受け、その理由を聞いて止めました。督郵の命は助かりました。しかし、関羽は劉備に、腐敗した官吏を排除し、今の職を放棄して別の道を探すべきだと助言しました。劉備は「民衆のためにあなたのような悪人は成敗すべきだったが」と言い、仁義により督郵の命を取らずに官職を辞めて去りました。戻ってきた督郵は、劉備を逮捕するように上に報告しました。劉備はその後、張飛と関羽と共に、代州(山西省あたり)に行き、太守の劉恢の処に身を寄せるようになりました。劉備が漢皇族の子孫であることを知った劉恢は、劉備らを助けて自分の家に残しました。
この物語は張飛が怒りで、督郵に鞭打つ語ですが、劉備、張飛と関羽の三人の忠誠心と正義感、民衆への愛情、悪徳官僚に加担しないという姿勢が詳細に描かれています。一方で、忠臣を陥れ、民衆を弾圧し、勝手気侭な「十常侍」の汚い姿や、やり方も具体的に描かれています。これは、宦官たちが朝政を乱し、すでに取り返しのつかないほど深刻になっていたことの証です。
そして、その後の流れとしては、「十常侍」は大きな権力を乱用し、黄巾賊を倒すことに成功して勲章をもらった将軍たちを排斥するようになりました。「十常侍」は黄巾賊を倒した武将たちに金銀財宝を要求し、それに応じない武将を解任する勅令を、皇帝に出すように要求しました。これで皇甫嵩、朱儁などの武将が、劉備と同じように、賄賂を払うことを拒否したため、誹謗中傷の噂を聞き入れた漢霊帝は、彼らを全員解任させてしまったのです。これに加えて、忠臣を陥れた宦官たちを将軍に任命しました。結局、張譲など13人の宦官は全員、何の実績や実力のない列侯に封じられました。
政権はどんどん混乱し、国民は不満を募らせるようになりました。その結果、長沙や漁陽等では次々と反乱が起きました。各地から緊急の情報報告が数多く送られてきましたが、「十常侍」にすべて隠蔽されたため、皇帝は何も知らずにいました。
大臣たちが、声を上げて宦官を批判したら、自分の臣下への誣告と思い込んだ皇帝は「国は平和だ、緊急事態なんてあるものか」と返事して、大臣たちを逮捕し、投獄しました。最終的に全員が獄中で宦官に殺害されてしまいました。
劉備は、劉恢に推薦されて、幽州長官である劉虞に身を寄せ、漁陽の反乱を鎮圧する機会を与えられました。成功を収めた後、督郵を鞭打った罪が赦されて、平原県の知事となったのです。
各地の反乱が鎮まった後、宦官たちは引き続き同じような悪行を繰り返し、忠誠心のある人たちを脇に追いやり、官職を売買し、悪事の限りを尽くしました。それ以来、朝廷では、忠臣は拒まれ、悪党は跋扈し、国は滅びる寸前でした。漢霊帝は宦官の誹謗中傷にすっかり目を奪われ、すぐに亡くなってしまいました。政権が崩れ、このため各地で英雄たちが立ち上がり、領主間の戦争が始まったのです。
(翻訳編集・柳成蔭)
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