近年、中国の離婚率は上昇傾向にある。中国民政部のデータによると、昨年には43.53%という驚異的な数字にまで達している。 つまり「10組の夫婦のうち、4組以上が離婚を選択している」というのだ。
中国の最高人民裁判所が以前公表したデータによると、離婚において、女性側が主導するケースは全国の離婚紛争案件のうち約74%を占めている。
つまり多くの場合、主導権をもつ妻が夫に「三下り半」を突きつけ、しかも協議離婚ではなく民事の訴訟にもちこんで、できるだけ多くのお金や財産を獲得してから、夫を捨てるように去っていくのだ。
夫の浮気、夫の借金、夫の親からの干渉、子供の教育に関する夫との意見の違い、などなど。「夫のナニナニ」を枕詞にした離婚理由を挙げれば、それこそきりがないが、そうした妻の言い分が離婚に突き進む最も主要な引き金となっているという。もちろん100の離婚には、100の異なる状況が存在する。夫の言い分も多々あるはずだが、それが協議の俎上に乗ることは少ないらしい。
究極的な答えを求めれば、やはり「結婚とは、何か?」という思考の出発点へ戻ってしまう。
そもそも人は(この場合「今の中国人は」と限定してもよいが)なぜ結婚し、偕老同穴を誓ったはずのその相手と、なぜこうも簡単に離婚するのだろうか。
中国では、離婚率がうなぎ上りに上がるなか、若者の結婚率のほうは低下の一途をたどっている。その原因は明確で、ともかく今の中国は、すさまじい就職難などで、生活基盤があまりにも不安定で過酷すぎるため、若者が人生の希望をもてるような環境ではないのである。
だから、家も車も買わない。子供も、もつことは諦める。そうであればこそ、苦しい時代を若い2人でともに支え合って生きるという意味で、極めてシンプルなかたちでの「結婚」があってもよさそうなものだが、そうした理想論とは裏腹に、中国の若者たちは結婚を選択しなくなった。
その理由の一つは、中国人の普遍的な価値観として、結婚に付随する各種の「条件」を捨てられないからだろう。この場合に必要とされる条件とは、不可視的な心や相手の人柄のことではなく、生々しい金銭に直結しているところがいかにも今の中国人らしい。
中国で結婚するにあたっては、男性側から贈るとされる「彩礼(日本の持参金、結納金などに相当する金銭)」を女性(および女性側の家)が求めることが多い。近年、この彩礼の金額があまりにも高騰していることが結婚の障害になっていると、ネット上でも熱い議論が交わされている。
もちろん全ての女性が、それを要求するわけではない。なかには「2人が幸せに暮らせるのなら、彩礼はいらないよ」といってくれる女性側の家庭もあるが、それは少数派であるようだ。
彩礼は一種の風習となっていることから、近年では女性側がお見合いをする段階から「この金額の彩礼が必要です」と、最初から「条件」として提示される場合も多いようだ。もちろん彩礼のほかに、男性側が所有するべき「車、家、貯金」など、女性によって結婚の前提条件はまちまちである。
最近では、結婚式の当日になって「新婦側が突然、彩礼の額を吊り上げるケース」が中国では少なくないという。そのため「どこぞの新婦が突然彩礼を値上げして、結婚が破談になった」といった賑やかな話題が、ネット上では絶えない。
中国メディアによると、今年5月にもそういった「事件」が起きた。結婚の当日、新婦を載せた車が新郎の家の前に到着したが、なぜか新婦は車から降りようしない。「あと20万元(約400万円)くれないなら、車から降りない」と新婦が突然言い出したというのだ。怒った新郎は「じゃあ、結婚をやめる」と言い残し、その場を去ったという。
この事件をめぐっては、さすがに新婦への非難コメントが多く寄せられた。「今の女は怖い。カネしか眼中にないのか。これでは結婚したところで幸せにはなれない」「神聖な結婚式が、値段をつけた人身売買に成り下がっている」「この世の中は、どうかしている」といった嘆きの声が広がった。
下の動画は、日時や場所は不明だが、結婚式当日に衆人が見守るなか、車中でご祝儀の現金を数える「花嫁さん」である。
結婚の幸福感とは、ずいぶん別の顔をしているようにも見える。果たしてこの新婦は、今もダンナ様と幸せに暮らしているか。それとも「10組の夫婦のうちの4組」に入ってしまったか。それは定かではないが、結婚に「条件」をもちこむと、生活が実に刺々しく、危ういものになることは間違いない。
真の愛とは、自分が相手に要求する条件を削り落とし、自己の欲望を捨てることで生まれる、温かい陽だまりのような心情である。そういう幸せがあることを、先の「あと20万元くれなきゃ、車から降りない」の花嫁さんに理解してもらえるだろうか。
中国には「天要下雨、娘要嫁人(雨が降ることも、娘が嫁に行くことも、自分では決められない)」という諺がある。つまり、天が決めたことを人間が左右することはできないから、結婚も同様に、自然に任せたほうが良い、というお話である。それも、その通りであろう。
ただし、ここで興味深いことに気がついた。この諺の「娘」は未婚のムスメではなく「子供をもつ母親」のことではないか。そうすると「夫に死別した子持ちの母親でも、生きるためには、再婚して他家へ嫁ぐことがある」という、もう一つの解釈もできるのだ。
その場合の結婚には、どうしても「生きるための条件」が愛に優先してしまうかもしれない。
もしや「10組のうち4組離婚」の背景には、それと共通するような「条件結婚」があるのではないだろうか。条件が先行した結婚は、後で「4組」のほうに入ってしまうリスクが高いのだ。
1987年の名作映画『芙蓉鎮』のなかで、胡玉音と秦書田は、文革期の迫害を受けながら本当の愛をはぐくんでいく。身重の胡玉音に、夫の秦書田は「豚になっても(何としても)生きろ」と言葉を残して、10年の労働改造へ送られる。
今の中国は、言わば文化大革命期と同じような、いつ命の危険に遭うかわからない闇夜のような時代である。中国の若者諸君には、この苦難の時代を支え合って生きる、本当の良きパートナーと出会い、縁あれば結ばれてほしいと切に願っている。
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