複数のメディアは8月11日、トヨタ自動車の元社長、奥田碩氏が8月8日に死去したと報じた。享年93歳。奥田氏は、トヨタ自動車が世界をリードする地位を築くための基礎を固めた。
長身の奥田氏は、歯に衣着せぬ発言と果敢にリスクを取る姿勢で知られた。主導して開発・投入した主要車種には、1997年発売のプリウスなどがある。同車は、ガソリンと電気を組み合わせたハイブリッド技術の先駆けと広く評価され、現在も消費者から高い支持を得ている。
奥田氏は三重県出身で、1955年に一橋大学を卒業した後、トヨタ自動車販売に入社した。同社は後にトヨタ自動車へ合併された。
経理部門で長年勤務した後、フィリピンに派遣され、優れた交渉力によって滞納金を回収し、頭角を現した。ジャングルを越え、現地の左翼ゲリラと面会したこともあったという。
1982年、奥田氏は取締役に就任した。当時、日米貿易摩擦を背景に、トヨタは米国に独立した生産拠点を設けることを決定し、奥田氏が立地選定を担当した。ケンタッキー州に設けられた工場は、その後、トヨタの北米における中核生産拠点となった。
1995年、奥田氏は創業者・豊田喜一郎の息子である豊田達郎氏の後任として社長に就任した。豊田家出身者以外の社長は約30年ぶりで、トヨタを率いて世界規模の事業拡大を進めた。
1990年代半ば、トヨタ自動車は業績が低迷し、利益が減少したほか、日本国内の市場シェアも低下を続けていた。奥田氏は局面を打開するため、海外での急速な成長を強力に推し進め、日本におけるトヨタの旧態依然としたイメージを一新した。
奥田氏の指揮の下、トヨタはフランスに新工場を建設し、米国での生産規模を拡大した。一方で、日本国内の工場を初めて閉鎖した。
社長として舞台裏でも重要な役割を果たし、米国による日本製高級車への100%の関税賦課を阻止するなど、日米間の貿易摩擦の緩和に成功した。
ただ、一部の批判者は、奥田氏によるコスト削減と海外での急速な事業拡大が性急すぎたため、10年後に品質問題や過剰生産能力を招いたとみている。
プリウスは、奥田氏を最も象徴する功績である。同車は1997年に日本で初めて登場した。当時はデトロイトの自動車業界幹部から強い反発を受けたが、その後、熱心な支持層を獲得した。プリウスは、より広範な電動化への転換に向けた基礎も築き、最終的に大きな利益をもたらした。現在では全車種にわたって展開されているトヨタのハイブリッド車は、米国のガソリン価格が1ガロン当たり4ドルを超える中、販売台数を大きく伸ばした。
1999年、奥田氏は社長としての日常的な経営実務を張富士夫氏に引き継ぎ、自らは会長に就任した。2006年に相談役兼取締役となるまで会長を務めた。
2009年には経営陣刷新の一環として取締役会を離れたが、その後も社外からトヨタの経営陣に影響力を保った。
責任編集:林姸
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