■論評
嫉妬は社会主義を動かす原動力である。それは一種の精神的な麻薬であり、人々に対して、自分より多くの富を持つ者を憎むよう仕向ける。例えその富の所有者が、嫉妬する者たちに対して何ひとつ害を加えたことがなくても、である。
その憤りはしばしば、完全な憎悪へと転じ、それに影響された者を蝕んでいく。アレクサンドル・ソルジェニーツィン(20世紀のソ連の反体制派作家)がかつて述べたように、「他人への嫉妬こそ、最も我々自身を食い尽くすものである」
中世ヨーロッパにおいて、富める者を憎むことは理解できたかもしれない。当時の富の持ち主は、莫大な土地や資源を独占していた世襲の君主や貴族たちであり、彼らの富は政治権力の独占と一体化していたからだ。
今日のアメリカのような資本主義(現在では半ば資本主義的な)社会では、現実は大きく異なる。資本主義における巨額の富は、世襲的で政治的特権を持つ階級に属しているから得られるのではない。むしろそれは、市場において獲得したものである。
確かに、あまりにも多くのアメリカ人が縁故主義によって富を得ていることは認めざるを得ない。そのような政府権力の忌まわしい乱用が減ることを私は歓迎する。しかし、今日の巨額の富の多くは、先見性ある起業家たちが、何百万人もの消費者に価値あるものを提供することで生み出した結果だ。
憂慮すべき現象は、多くのアメリカ人が億万長者に対して燃やす嫉妬の念である。その嫉妬は、扇動的な政治家によって美徳として包装し直されている。トマス・ソーウェル(アメリカで人気の経済学者、95歳)氏が述べたように、「かつて嫉妬は七つの大罪の一つとされていたが、いまや『社会的正義』という新たな名のもとで、最も称賛される美徳の一つとなった」
左派の人々が億万長者をギロチンに送るという空想を語り、しかもそれを本気で言っているのを耳にするとき、私たちは野蛮さと危うく戯れているのだという厳粛な現実を思い知らされる。
反・億万長者の群衆は、恐ろしいほどの経済的無知に囚われている。彼らは、取引が自発的に行われる市場経済の基本的な構造を悲しいほど理解していない。そのような取引は、互いに利益をもたらし、学術用語で言えば「プラスサム(協力や創造によって全体の利益を増やす考え)」の関係である。個々の起業家が億万長者になる方法とは、同胞の多くに対して少なくとも十億ドル分の価値を創造することである。
したがって、億万長者を嫉妬し憎むということは、多くの人々に莫大な価値を提供した者を軽蔑することにほかならない。社会を経済的に豊かにした立役者を社会の敵として悪魔化するとは、なんと狂気の沙汰だろう。これはマルコムX(アフリカ系アメリカ人の急進的黒人解放運動指導者、イスラム教の導師)の言葉が思い出される。「嫉妬は人の目を曇らせ、冷静に考えることを不可能にする」
経済的平等を説く社会主義は、自然と現実に対する戦争を仕掛けている。自然は常に、壮大で驚くべき多様性を生み出している。自然はそれぞれの人間に、資質・才能・特性・技能・性格などを独自の組み合わせで授けている。もし自然の成り行きに任せ、すなわち、人々が自らの才能を伸ばし、目標を追求し、潜在能力を最大限に発揮し、卓越を成し遂げる自由を持つならば、社会は計り知れない恩恵を受けることになる。
ある者は運動能力に、またある者は芸術的創造力に秀でるだろう。アメリカのいわゆる「穏健な社会主義者」(中国の毛沢東のような過激な社会主義者とは違い)たちはそれを容認する。しかし、今日のアメリカの社会主義者たちがどうしても受け入れられないのは、他者に対して商品やサービスを提供する能力において卓越し、その結果として巨額の富を築く個人である。その富こそが、彼らが同胞に生活水準を向上させる商品やサービスを提供することにおいて優れていたことの証拠である。
嫉妬は個人の独自性や卓越性を軽蔑し、社会主義者はそれを抹消しようとする。社会主義者は、ある個人が他者よりもはるかに裕福になるのは、物やサービスを提供することで得たものであっても、それを道徳的に忌むべきことと見なす。それらは、多くの場合、卓越したアスリートや芸術家が提供する娯楽や、仮に平等主義的な社会を描いた理想的なビジョンよりも、顧客の幸福にとって重要なものである。
したがって、社会主義者たちは他者のために富を創造したという「罪」で社会の富の創造者たちを罰し、叩きのめすのである。これは、マーガレット・サッチャー(イギリスの政治家)の「嫉妬の精神は破壊はできても、創造することは決してできない」という洞察に集約される力学である。
社会主義政府が避けて通れない問題は、人々をより優秀にする、つまり、個人をより才能豊かに、より聡明に、より勤勉に、より生産的にする、その方法を誰も見出せていないという点にある。彼らにできることは、「下方平準化」することだけだ。すなわち、経済的に優れてしまった者を妨げ、抑制し、その富を没収することである。社会主義のこの経済的破壊的な側面は、社会主義の基本理論における重大な矛盾を浮き彫りにしている。すなわち、社会のすべての構成員が平等であるという社会主義の理論は、社会主義を現実に適用した途端に崩壊してしまう。
ジョージ・オーウェルが傑作寓話『動物農場』で描いたように、「すべての『人間』は平等である。だが、ある者たちは他の者よりもさらに平等である」
理論上、社会主義は平等を称揚するが、実際には根本からエリート主義的であり、政治指導者たちは、富を没収し、専制的な支配を行い、富裕で成功した、生産的な、すなわち卓越した社会構成員たちの生活を貶めるための、並外れた権力を振るう。もう一つの嫉妬と、それに伴う引き下げ的思考の例として、最近ニューヨーク市の学校で、才能ある児童向けの特別教育プログラムを廃止しようとする提案が挙げられる。私はオックスフォード大学で大学院課程の一環としてギフテッド教育を学んだ者として断言できるが、学習に困難を抱える子供たちが特別な支援教育を必要とするのと同じように、才能ある子供たちは自分たちの特性に合わせた特別な教育プログラムを必要としている。
実際、何千人もの教師がこう言うだろう。最適な教育制度とは、各生徒の能力や学習過程に応じて個別にカリキュラムが組まれる制度であると。人間は一人ひとりが独自の存在であり、惰性的な金属の塊のように代替可能なものではない。教育においても他の分野と同様に、社会主義の教義である「すべてに同一のやり方が通用する」という考えは、ひどい誤りであり、人間の本性に適合する実践についての甚だしい虚偽である。
才能ある子供たちのために設けられた特別プログラムを廃止するという発想は、そうではない者たちの嫉妬心に訴えるものである。それは驚くほど近視眼的であり、自滅的ですらある。もし学校がこうした才能ある子供たちの潜在能力を最大限に引き出すことができれば、彼らが高い経済的報酬を得られる職業に進む可能性が非常に高いのは確かである。
だが、その富はどのようにして得られるのだろうか。繰り返すが、それは彼らが他者に提供する奉仕と、他者のために創造する価値によってである。学生たちが医師となり、医師になる知性を持たなかった人々を治療するか、あるいは私たちの生活を豊かにする物理的・デジタルのインフラや装置を設計するエンジニアとなるか、あるいはその他何千もの知的に高度な方法で、他者に高付加価値の財やサービスを提供する代わりに利益と成功を得る場合でも、才能ある子供たちの潜在能力を最大限に引き出すためのプログラムは、社会全体の福祉に寄与することになる。
価値の創造はさらに高められるだろう。そして、非才能者が才能ある少数派よりはるかに多いのだから、その創造された価値の大部分は非才能者によって消費されることになる。人々は、優れた人間の存在を嫉妬し、消し去ろうとするのではなく、その卓越性に感謝すべきなのである。
最後に、ナポレオンの言葉を引用して締めくくろう。「嫉妬は、劣等性の宣言である」。さあ、アメリカの同胞たちよ、嫉妬を超えよう。卓越や成果を憎むことで自らを劣等の殻に包むのではなく、むしろ個々の卓越性を尊び、称賛し、感謝しよう。個人の偉大さなくして、社会の偉大さはあり得ないのだ。

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