毛沢東に渡さなかった「紫禁城の宝物」【20世紀の記憶】

2022/09/11
更新: 2022/10/21

第二次世界大戦は1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾によって終結する。

9月2日、東京湾上にうかぶ米戦艦ミズーリの艦上で調印式がおこなわれ、同日発効された。

ただし、黒灰色の濃霧が一気に晴れるように、世界に平和がもどったわけではなかった。
1946年から54年にはインドシナ戦争が起き、1950年から53年には朝鮮戦争が起きる。そして中国大陸では、日本という共通の敵を失ったことにより、蒋介石毛沢東の宿命的な戦いである国共内戦(1945~1949)が再開されることになった。

さて、そうした20世紀の激動がつづく北京の中心部に紫禁城(しきんじょう)はある。
明朝および清朝の歴代皇帝が玉座をかまえた広大な王宮には、膨大な量の宝物(ほうもつ)が所蔵されていた。それらはいずれも、地球上に二つとない、歴史的にも美術的にも第一級の価値をもつ貴重な文化遺産であった。

そこで、それらを敵に奪われることなく、また戦火に焼かれて失われることのないよう、いかに守り抜くかが重要課題となる。

満州事変(1931)勃発後、塘沽停戦協定(1933)によって日中間で一時的な停戦が実現したものの、華北各地では散発的な武力衝突が続いていた。それらは、中共ゲリラによる日中両軍への陽動の可能性が排除できない。

いずれにしても、紫禁城の文物が、満州から華北地方へ進出しつつあった日本軍の手にわたることを警戒した蒋介石の国民政府(1948年からは中華民国政府)は、これを全て木箱に梱包して、南方へ避難させることにした。

その気の遠くなるような労作を、21世紀の私たちは大いに称賛すべきだ。それら中華文明の至宝が、最終的に中国共産党に奪われなかったことは、蒋介石とそれに従事した人々の功績である。

これは、日本流の言い方をすれば「三種の神器」を敵方に奪われなかったことを意味する。毛沢東は、地団駄ふんで悔しがったに違いない。

このときの避難で、上海から南京に移された1万3千箱は、南京に迫る日本軍を避けて、さらに遠い四川省まで運ばれた。船で進めない陸路は牛馬の荷駄にして運んだ。日本軍がいない場所では、地元の盗賊や匪賊が出る。貴重な宝物を預かった輸送隊は、常に危険と隣り合わせであった。

第二次大戦終結後、日本軍が中国を去ってから、これらの宝物は一度北京へ戻されたが、国共内戦が激化した1948年、中華民国政府は再び宝物を安全な場所へ避難させることを決断する。その搬送先は、台湾だった。

もっとも、紫禁城の宝物の全てを運ぶことは諦めざるを得なかった。そこで「第一級の文物」を厳選し、それらを優先して軍艦に乗せた。この行動にはひとつの決意が見える。国民党を率いる蒋介石は「大陸奪還」を固く誓い、中国共産党に対する捲土重来を期していたことである。

その決意の証が、数千箱の木箱に詰められ台湾に運ばれた紫禁城の至宝だったと言ってよい。もし敗北を認めたのなら、追撃を恐れ、身軽な手ぶらで逃亡するだろう。しかし、そうはしなかった。想像するに、蒋介石の心中は「毛沢東よ。欲しけりゃ取りにこい」といったところか。

以来、70数年の歳月が流れた。
その結果、紫禁城にあった歴代王朝の宝物は、選ばれた「第一級品」が台北の国立故宮博物院にあり、それ以下の二級品が北京の故宮博物院にある。また、一部の文物は、南京博物院に保管されている。

このような「分散保管」の状態から、現代の私たちは何が読み取れるか。

もしも中国大陸にこうした貴重な歴史的文物がおかれていたら、文化大革命期に横行した狂気的な破壊活動によって、消滅していたかもしれない。台湾にあったからこそ、助かったのである。その功績はもとより大きいが、なによりも「中華文明の正当な継承者はどちらか」を示す物証として、いま台湾にそれらが存在しているのではないか。

大陸を奪った中国共産党は、五千年の中華文明を徹底的に破壊した。
その理由を端的に言うならば、彼らの標榜する共産主義が外来の無神論であるとともに、天も神も全く畏敬しない悪魔思想であるからに他ならない。

それゆえに歴史は、彼らに「紫禁城の宝物」を持たせないよう采配したのではないだろうか。