中共が支援したポルポトの大虐殺【20世紀の記憶】

2022/09/24
更新: 2022/10/21

カンボジア、という国名を最近耳にして、いやな胸騒ぎを感じた。

カンボジアで進む「中共の経済侵略」

多数の台湾人や香港人(つまり中国語が通じる相手)を「海外に良い条件の仕事がある」という甘い言葉で勧誘し、連れて行った先がカンボジアだった。その数は、まだ全貌がつかめていないが、数千人とも言われる。

彼らはそこで、中国人の犯罪組織にパスポートを取り上げられて監禁され、ネット犯罪に関連する作業を強いられた。嫌がれば、電気棒などですさまじい暴行を加えられる。作業を拒否した女性は性的暴行を受け、現地の性風俗の店に売られた。21世紀の現代に出現した、明らかに組織的な「奴隷労働」である。

発展途上国のなかでも、とくに経済基盤が脆弱なカンボジアに対しては、中国共産党の政府から、実質的に国を奪うほど多額の投資や政府援助がなされている。

プノンペンには、中国人経営の企業が集中する一角がある。その中でいかなる犯罪が行われていても、現地の警察は全く手が出せない。

暴行された台湾人や香港人も、そのような治外法権的なエリアに監禁されていた。そこから脱出できたのはごく一部で、まだ多数の人が監禁されているという。中国共産党による、官民一体の経済侵略がカンボジアで進んでいると見てよい。

200万人を虐殺した「赤い魔王」

その男の本名はサロット・サルというそうだが、通称のポル・ポト(ポルポト)のほうが圧倒的に知られている。

ポルポト(1928~1998)は魔王であった。当時のカンボジア国民(約780万人)のうち、4分の1にあたる200万人を虐殺した。このカンボジア大虐殺は、1975年4月から約3年8カ月つづく。

殺す理由は「(知識人のように)眼鏡をかけていたから」など、訳が分からないものばかりである。学校の教師も、医師も、文字の読める公務員も、みな殺された。銃弾はコストがかかるので、森のなかへ連行し、鉄棒で頭を殴って「作業」をすませた。流血は川となり、カンボジアの大地にしみ込んだ。

それを命じたポルポトの名は、今日のカンボジアにおいて、おそらくヒトラーと似たような響きであろうと想像する。

ならば、そのポルポトが率いるクメール・ルージュがなした自国民への大虐殺と、それを全面的に支えた毛沢東および中国共産党との悪魔的関係を考えた場合、立憲君主制となった現在のカンボジア王国が、今も中共と密接な関係を保っていることには、巨大な不条理を感じざるを得ない。

「やはり経済優先か」とも思う。中共の中国はどこまでも貪欲かつ狡猾に、カンボジアも、ラオスも、ミャンマーやスリランカも、さらには遠くアフリカの国々までも、経済的支配下に置こうとしている。これを正常な国際社会とは、とても言えない。

フランスで共産主義に触れた青年

1954年以前のカンボジアは、仏領インドシナと呼ばれフランスの支配下にあった。

ポルポトは1949年にフランスへ留学する。21歳の彼は、そこで共産主義に触れ、コミュニストになった。3年ほどで帰国したが、マルキシズムを学んだわけではなく、むしろ海外で民族主義的な感覚を鋭敏にしたようである。

のちに、ポルポトが率いるカンボジア共産党(クメール・ルージュ)は、ソ連に敵対する毛沢東および中国共産党に接近し、中国から全面的支援を受ける。ただし、ポルポト個人が「毛沢東思想の信奉者になった」という形跡は見られない。

つまりポルポトは、中共の政治思想ではなく、その「残虐な手法」だけを学び取ったのである。そこには、もちろん国民のために良い国づくりをする理念など全くない。

中共からポルポトへ伝えられたもの

その「残虐な手法」をカンボジアの魔王に教えたのは、中共の影の「魔王」である康生(こうせい)という恐るべき男であった。

毛沢東の信任を受けて、党内の警察権を掌握した康生は、1940年代の延安で「整風運動」という大粛清を行い、数万人とも言われる中共党員を処刑した。

その康生は、1933年から4年間ほどモスクワに滞在している。スターリンの大粛清が行われていたソ連で、秘密警察による容疑者への逮捕・拷問・処刑などを身近に見聞したのもこの時であった。

つまり、ソ連の「残虐な手法」は康生によって中国へ伝わり、さらにその残虐性が純化されて、カンボジアのクメール・ルージュにも伝播したことになる。

「中共を撃退した」ベトナムの奮戦

凄惨なベトナム戦争(1955~1975)は北ベトナムの勝利で終わった。対米戦直後のベトナムは、地雷と不発弾だらけであった。そこでベトナムは、ずたずたに傷ついた国土再建の暇もなく、もはや健気としか言いようのないほどの孤軍奮闘を見せる。

西にはポルポトの民主カンプチアがあり、自国民を大量虐殺していたため、当然そこから逃げ出したカンボジア人がベトナム領に入ってくる。追いかけるクメール・ルージュが、ベトナムの村まで襲い、村人を多数殺した。

そうした背景もあって、ベトナム軍がカンボジアに侵攻し戦争(1975)となる。ただし、ポルポト軍がベトナムへ侵攻して戦闘になったという別の局面も複数あるので、「どちらが先か」は判断しにくい。

いずれにしても、ポルポト軍は敗走した。ただし、その残党が森へ逃げ込み、カンボジアに駐留するベトナム軍へのゲリラ的な抵抗を1985年ごろまで続けることになる。

一方、中共にとって「子飼い」であるポルポトをベトナムが攻撃したことに憤慨したのは、中国の鄧小平であった。鄧は「ベトナムを膺懲(ようちょう)する」という目的で、20万の大軍をベトナム北辺の国境に侵入させる。これが中越戦争(1979)である。

ただしこのとき、鄧小平はベトナムを完全に甘く見ていた。

ソ連から武器供与を受け、実戦経験が豊富なベトナム軍は、少数の兵ながら見事に戦い、押し寄せる中共軍に大打撃を与えて、これを撃退した。ベトナム軍の精鋭は、北の中共軍と西のポルポト残党軍を相手にして、困難な二正面作戦に勝利したのである。

ただし、この陸上戦の失敗に懲りた中共軍はその後、南シナ海のスプラトリー諸島およびパラセル諸島を、ベトナムから武力で奪い取っている。