117年前の「9月5日」日比谷焼き討ち事件が発生【20世紀の記憶】

2022/09/01
更新: 2022/10/21

20世紀の日本は、その船出からして、巨大な荒波にもまれた。

日露戦争(1904~05)で「日本は激戦の末、大国ロシアに勝利した」と国民は思っていたが、実際は薄氷を踏むようなものであり、日本にはとても戦争を継続する余力はなかった。

その点はロシアも同様で、内政がきわめて不安定になっていた。日露戦争中の1905年1月22日、首都サンクトペテルブルグでおこなわれた市民の請願行進に軍隊が発砲して「血の日曜日」と呼ばれる惨事が起きる。この事件を発端として、以後、帝政ロシアの根底をゆるがすロシア第一革命が2年5カ月にわたって続く。

なお、それから12年後の1917年、二月革命で帝政ロシアが倒れ、その次に建ったロシア共和国も同年の十月革命で倒れる。その後、赤軍と白軍による内戦ののち、1922年のソビエト連邦成立へと20世紀の歴史は流れていくことになる。

さて日露戦争直後の日本であるが、国民にしてみれば当然「これだけ犠牲を払ったのだから、敗戦国であるロシアから多額の賠償金を取れるはずだ」という思考になる。しかし、取れなかった。戦後の日本をとりまく国際関係は、日清戦争のときと全く異なっていた。

それに激高した日本の市民が1905年9月5日、日比谷焼き討ち事件を起こす。

東京の日比谷公園で行われた、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生したこの事件は、激昂のあまり暴徒と化した群衆によって、東京市内の複数の場所から出火するとともに、死者17人を出す惨事となった。

江戸期から明治の世を経て、ようやく近代国家の「国民」となった日本人であった。しかし、その国民が理性を失った初めての実例として、日本の20世紀初頭に暗い影を落としたのが、この日比谷焼き討ち事件であったと言えるかもしれない。

20世紀初頭と言えば、まだ中国の清朝は倒れていなかった。倒清革命を目指して奔走していた革命家(それは孫文であったり、黄興、秋瑾、宋教仁であったりするのだが)は数多くいたが、いずれにせよ、彼らの目標となり身近な手本となったのは、40年前に明治維新を成し遂げ、東進するロシアを撃退した日本だったのである。

なお、蛇足ながら、この時期の中国人に後年のような反日思想はない。
若い中国人革命家の目に映る日本は、もちろん屈折した心情はあったものの、ひたすら羨望の的だったのである。西太后(1835~1908)がまだ存在する清朝は、もはや彼らにとって再興すべき祖国ではなく、一日も早く倒したい旧体制でしかなかった。

その清朝が倒れた辛亥革命(1911)の翌年である1912年は、中華民国元年であり、日本の大正元年にあたる。

細かく言うと、同年の1月1日から、孫文(1866~1925)を臨時大総統とする中華民国が始まった。7月30日未明に日本の明治帝が崩御し、同日すぐ明宮嘉仁親王が践祚(即位)して大正時代となる。

中華民国は、アジアで最初の共和制国家として誕生した。しかし、その基盤はあまりにも弱く、ほどなくして帝政復興をたくらむ袁世凱に孫文はその地位を奪われる。

やがて第一次世界大戦(1914~1919)が始まると、日本は日英同盟を口実にドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地であった山東省青島と膠州湾のドイツ要塞を攻撃する。同盟を「自国が参戦する口実に使う」とは、現代とは隔世の感があるというしかない。

さて、第一次大戦終了後の1919年である。
それはスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが世界的に猛威をふるう最中であったが、同年1月のパリ講和会議で調印されたヴェルサイユ条約のなかで、日本がドイツから奪った山東省の利権がそのまま容認されていることに抗議するため、5月4日、北京の学生数千人がデモ行進を行った。

この「五四(ごし)運動」は、一般的には抗日と反帝国主義の学生運動として知られている。確かに、これに至るまでに、大隈重信内閣の対華21カ条要求をはじめ、日本が中国人の民族感情を刺激する事象が続いていた。第二次大戦以前で、中国の民衆(一定の教育を受けた人に限られるが)レベルでの「反日」の萌芽は、この頃から始まったと言ってよい。

ただし、五四運動に前後する中国国内の動きをつぶさに見てみると、白話文(口語文)の推奨など、儒教を主とする旧文化への批判が運動の中心であり、抗日(反日)が前面に出ていたわけではない。現代の反日は、やはり中国共産党による洗脳の結果と言うべきであろう。

また日本としては、例えば北京の段祺瑞(だんきずい)など、中国の各地方に勢力をもつ軍閥との間に、良くも悪くも作ってきた「関係」があった。彼ら中国の軍閥も、主として自軍増強のためであるが、日本からの円借款を求めていたのである。

この点、幕末の薩摩や長州に(規模は全く異なるが)英国の商人が外国製の銃器をひそかに売っていた構造にやや似ているかもしれない。ただ困ることは、中華民国という新しい国家ができたにもかかわらず、地方軍閥がそれぞれ自分の「王国」を構えていたため、近代国家としての国内統一と社会整備が遅々として進まないことであった。

孫文は北京で病没するまでこれに苦心したが、その解決は、蒋介石による北伐(1926年開始)を待たなければならなかった。

さて、100年前の歴史の風景を求めて訪れたのは、東京千代田区にある日比谷公園である。園内の中央に、松本楼という洋風レストランが今もある。

「今もある」と書いたのは、このレストランは1903年開業で、先述の日比谷焼き討ち事件に関わった主要メンバーも集会前にこの店に集まった。また、日本亡命中の孫文など、中国人革命家とも浅からぬ縁があった。彼らは、ここで祖国の前途を論じながら、その料理を賞味した人々である。

もっとも、レストランの初代の建物は、大正12年9月1日の関東大震災で焼失している。その際、日比谷公園は家を焼失して野宿する被災民であふれた。

2代目の店舗は1971年11月、園内でおこなわれた沖縄返還協定反対デモが激化し、投げられた火炎瓶によって焼けてしまった。現在のレストランは3代目で、再建されたのは1973年だという。