WHO「対中迎合」の内情 SARS後の浸透工作が奏功か

2021/08/25
更新: 2021/08/25

米紙ワシントン・ポスト19日付は、新書『余震:パンデミック政治と旧国際秩序の終焉』を紹介する記事を掲載した。同書は世界保健機関WHO)が北京の圧力に屈して、ウイルスの研究所流出説を排除したことの内部情報を明らかにした。

同書は、米シンクタンク「ブルッキングス研究所」の研究員であるトーマス・ライト(Thomas Wright)氏と、バイデン政権で国防省の政策担当次官を務めているコリン・カール(Colin Kahl)氏の共著である。

同書によると、WHOの首脳陣は、2月武漢研究所を調査したWHOのチームが実験室からの漏洩を完全に否定したという結論に驚いたという。 WHOの上級専門家も驚きを隠せなかった。匿名を希望するある専門家は、同書の著者に「椅子から転げ落ちそうなほどの衝撃を受けた」と語った。

同書は、武漢入りして調査を行った国際専門家チームは、中国政府の圧力に屈し、十分な調査を行うことなく研究所流出説を排除した、と指摘した。

最近公開されたドキュメンタリーの中で、調査団の中心メンバーである感染症専門家のピーター・ベンエンバレク氏は、中国政府が調査団に対し「この仮説(武漢ウイルス研究所流出説)を支持するための具体的な調査は行わない」という条件で、武漢での実地調査を許可したと述べた。

調査団が出した結論を世界中の科学者が批判した。WHOのテドロス事務局長もそれまでの中国寄りの姿勢を一転させた。同氏は7月16日、中国政府がウイルス発生源に関する第1次の調査に必要な生データを共有していないことを非難し、第2次の調査を行うことを提案した。そして、協力的で、透明性のある連携を中国政府に求めた。

その後、WHOと中国当局の関係は急激に悪化した。中国の衛生当局は7月22日、WHOが計画している第2次調査への協力要請を拒否した。

中共はいかにWHOに浸透したか SARSがきっかけ

中共ウイルス(新型コロナ)感染症が発生した当初、テドロス事務局長をはじめとするWHOは、その露骨な中国共産党(以下、中共)政権寄りの言動で批判を浴びていた。WHOを取り込めた中共が、同機構に浸透工作を仕掛けるきっかけとなったのは、SARS(重症急性呼吸器症候群)の発生だった。

2003年に中国でSARSが発生した際、WHOが中共の隠蔽体質を積極的に追及したため、中国当局は対応に苦慮した。

米週刊誌「TIME(タイム)」の独占報道によると、同年4月15日にWHOの専門家が北京に到着したとき、中国当局は実際の感染者数を隠蔽するために患者の移動や隠蔽を急いだという。

WHO専門家チームが北京の人民解放軍309病院に到着する数時間前、同病院のSARS患者40人以上はホテルに移されていた。また、中日友好病院ではWHO専門家が到着する前に、31人のSARS患者が急遽、数台の救急車に乗せられ院外に連れて行かれた。

WHOの追及に苦しめられた中共はその後、WHOへの影響力を強めるための工作を始めた。当時の胡温政権は、2006年のWHO事務局長選挙で香港出身の医師マーガレット・チャン(陳馮富珍)氏の当選を支持するよう、経済協力と引き換えに32カ国から選ばれたWHO執行理事に働きかけた。

2012年には、チャン氏の2期目当選を果たすために、中共が票の買収工作を行ったとの報道が多く出た。同年6月、チャン氏は習近平国家主席の彭麗媛夫人をWHOの結核・エイズ対策親善大使に任命した。

その後、WHOは票の買収疑惑に関する報道を受けて、無記名投票に切り替えた。2017年7月、テドロス氏がチェン氏の後任としてWHO事務局長に選出された。就任直後の8月、テドロス氏は北京を訪問し、中国政府から2000万ドルの追加拠出を受け取った。同氏の母国であるエチオピアは、中国政府が推進する広域経済圏構想「一帯一路」の最も重要な参加国の一つであり、「東アフリカのリトルチャイナ」と呼ばれている。

SARSが香港で流行したとき、当時の香港衛生署長だったマーガレット・チャン氏は、「国家機密」を理由に、意図的な隠蔽と不作為を行ったと批判された。テドロス氏は2006〜11年まで、母国エチオピアの保健大臣を務めていた際、何度もコレラの発生を隠蔽し、必要な措置を遅らせていたと非難されている。

2020年1月23日、中国当局は感染拡大した武漢市の封鎖を指示した。武漢への国内線の交通を遮断したが、国際線の乗り入れは自由にした。それから1カ月半の3月11日、WHOがようやくこの感染症を「パンデミック(世界的大流行)」と認めた。

米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は昨年45日付の社説で、テドロス事務局長はパンデミック宣言や渡航規制を早期に導入しなかったため、感染拡大の責任を負わなければならないと非難した。

(翻訳編集・王君宜)