「影のドン」曽慶紅 江沢民の腹心として登り詰めた人(2)

2016/12/30
更新: 2016/12/30

江沢民の腹心参謀として異例な出世

曽慶紅は20年で、地方の副局長から国家副主席へと異例の出世を遂げた。

89年から93年にかけて、曽は中央弁公庁副主任を務め、93年から99年には中弁主任に出世。中央弁公庁は中南海の党・政府高官の日常生活、仕事環境、安全警備等を全般的に管理する機関であり、その主任は中央指導者の最も信頼する人物が任命され、「大内総管」とも言われる。

99年から02年には中央書記処書記、中央組織部部長に任命され、人事権を掌握した。02年には政治局常委になり、権力の中枢に加わった。03年には国家副主席に就任するとともに中央香港マカオチームの責任者も兼任し、香港地域の実質のトップになった。

特務政治と「貪腐治国

曽慶紅がそのキャリアにおいてよりどころとしたのは、明朝、清朝の宮廷における権力闘争から学んだ「東廠モデル」、つまり「特務政治」だった。

豊富な人脈と得意な権謀術数に、こうした特務的手法が加わったことは、曽慶紅が政治手腕を発揮する資本となった。さらに、江沢民に道徳のボトムラインはなく、曽慶紅に権謀術数をもてあそぶ機会が与えられた。

中国の官僚の汚職は、鄧小平時代の改革開放のころから引きずっている問題だった。江沢民時代はこれを取り締まるどころか、むしろ積極的に利用した。江沢民政権の「貪腐治国」とは、官僚の腐敗を放任する一方、汚職不正などの証拠を情報機関が収集して「秘密個人ファイル」を作成し、それを利用して腐敗官僚を服従させ、政治的な取引を通じて権力を集約すること。江沢民は自分に追従する官僚を次々と重要ポストに抜擢し、政治の私物化を進めていた。

「貪腐治国」のため、野放しになった腐敗官僚が党内や政治機関にはびこり、拝金主義が広まった。江沢民と曽慶紅、2人が20年に渡って互いをうまく利用し合った結果、中国にこれまでで最も腐敗のはびこる、血なまぐさい時代が訪れた。

江沢民は党総書記に就任したものの、周囲からはつなぎの人物に過ぎないとみなされていた。その江沢民が総書記の地位を維持できたのは、曽慶紅の働きによるところが大きい。安全情報システムを使って国の統治を維持することで、曽は江の命綱となった。

 

曽慶紅 特務システムを一手に握る

曽慶紅は表向き、情報システムの主管を務めたことはない。だが両親の残した広い人脈を使いながら、自身がかつて中弁主任、組織部長のポストにあった時の人脈、そして「石油閥」「上海閥」「江家閥」、さらに自身の出自である「江西閥」を巧みに利用して、情報スパイ系統に全面的に介入し、巨大な情報帝国を築き上げ、中国共産党情報スパイ系統の影のドンに君臨するに至った。

曽慶紅が政治局に入った時、政治局の常委において統一戦線は賈慶林が、公安、国安(中華人民共和国国家安全部)は羅幹と周永康が担当していたが、彼らはみな「江家閥」メンバーだった。

曽慶紅の幼馴染で、「紅色兄妹」と呼ばれた女性幹部の劉延東は、かつて「海外情報の収集については、統一戦線に勝るものはない。国安は、中国に対する外国の諜報活動を防止する役割を果たしているに過ぎない」と発言している。劉延東が統一戦線部長を務めていた02年から07年は、曽慶紅が情報系統を海外まで拡大した時期と一致する。

香港における中国共産党の諜報活動は以前から存在していた。97年の香港返還前がその活動がピークになり、この時は各系統の情報機関が入りみだり最も混乱していた時期でもある。03年7月、香港で『基本法』第23条に反対する市民約50万人が集まり、大規模なデモが発生した。

中国共産党はこうした状況に対応するために、十八の部門からなる中央香港マカオ工作協調チームを組織し、国家副主席の曽慶紅を責任者に据えた。曽慶紅はこのときに以前の各情報機関を引継ぎ、再編成して自身の手による大規模な安全情報システムを構築した。曽慶紅が設立した一連の情報システムは、引退後も、維持され続けている。

(おわり)

(翻訳編集・島津彰浩)

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。