【分析】 馬興瑞の政治的経歴は習近平の失敗を証明している

2026/04/09
更新: 2026/04/09

中国共産党(中共)中央政治局委員馬興瑞の官途の一歩一歩には習近平の影があり、彭麗媛(中国の第一夫人)をめぐる「山東派」は存在するのか? 党内に派閥が存在するのは鉄則である。

中共の官製メディアは、「馬興瑞は重大な規律違反および違法行為の疑いがあり、現在、中央紀律検査委員会・国家監察委員会の規律審査および監察調査を受けている」と報じた。これは、昨年から広く噂されていた馬興瑞の失脚という事態が現実となったと言える。

馬興瑞の失脚の表向きの理由については諸説あるが、彼がかつて務めた重要な職務、とりわけ宇宙・軍需系との関連は間違いない。

彼は1996年に正式に宇宙システムに入り、2007年には中国航天科技集団の総経理に昇進し、鑫諾衛星、総装備部、国家航天局、国家原子能機構など、多くの機関の指導者を歴任した。2013年からは、国防関連国有企業システムを離れ、工業情報化部に入り、副部長、国家航天局局長、国防科学技術工業局局長を歴任。同年末に地方へ転じ、広東省に空降し、省委員会副書記、深セン市委員会書記、広東省省長を歴任した。2021年末に新疆党委員会書記に転任し、2022年に政治局入りした。

習近平は、中国を「強くする」という自身の歴史的定位に基づき、かつて航空宇宙・軍需産業系に大きな期待を寄せ、同分野出身の幹部を中央および地方の指導機構に多数登用してきた。これらの人々は元来、習近平の派閥に属していたわけではないが、高層部入りは習近平による登用の恩恵を受けたものである。

馬興瑞は宇宙・軍需系から頭角を現したが、初期の後ろ盾は江沢民の長男・江綿恒だったと見る向きもある。しかし、彼の出世における重要な転機は2013年、すなわち習近平が権力を掌握して2年目に訪れたものであり、決して偶然ではない。

最近、軍需産業システムの不振が習近平の「武力統一」という大業に悪影響を及ぼしたことから、現在の軍需系高官だけでなく、習近平が地方および中央に登用した元軍需系出身の官僚も相次いで失脚している。これらの人物の多くは航空宇宙・軍需産業システムにおいて馬興瑞と接点を有しており、軍需分野の反腐敗の動きが馬興瑞に波及したとみられる。

馬興瑞が同システムに在籍したのは習時代以前であり、本来なら追及する理由にはならないはずだが、これは一つのシステムとして、少なくとも習近平が人を見抜く力に欠け、人材を適切に登用・管理できず、さらには全体的な戦略的誤りを犯していることを証明している。

馬興瑞の経歴に常に習近平の手配の影

主な理由は、広東省および新疆での在任期間に起因する。広東省在任期間において最も可能性が高いのは、恒大の許家印が供述したとする利益供与リストに馬興瑞の名前が挙がっていたという説だ。

確証はないものの、大手不動産開発会社、恒大集団の台頭と馬興瑞が深セン・広東を統括していた時期が極めて一致しており、入札や土地買収を前提とする不動産業界は、必ずや現地政府や主要幹部と密接な利害関係や利益供与があったはずだ。これは「起こり得るかどうか」ではなく、「必ず起こる」ことだ。なぜなら、このシステムはそう設計しているからである。

もう一つの説は、馬興瑞の妻である栄麗が、120枚の高額な香港の生命保険証券を購入し、中共の各部委、地方政府、および軍の上層部の家族に贈ったというものだ。その金額は数百万から数千万香港ドルに上り、隠蔽された利益供与として機能していた。これも立証はできないが、これほど広範囲にわたり上層部へ利益を供与する事例には前例がある。

1990~98年まで中共公安部長を務めた陶駟駒は、在任中に自ら、傘下企業の資金と密輸品の没収金を流用し、合計5.5億元で豪華住宅を購入し、中央各部委の指導者に賄賂を贈った。賄賂を受け取ったのは、12名の国務院副総理と52名の部級指導者を含む。関与の範囲が広く、かつ地位も高かったため、結局、陶駟駒は起訴を免れ、最終的には全国人民代表大会法制委員会のポストに就いて余生を過ごした。

最後の赴任地において、馬興瑞は明らかに習近平から重任を託された地方の重鎮であった。辺境地域と軍隊は同様に閉鎖性と機密性を帯びており、国家からの財政補助も非常に潤沢で、その使途を追跡することは困難である。彼が新疆の在任中に、部下たちが次々と調査を受けたことも、彼に不祥事が起こる前兆であった。

2013年以降の馬興瑞の仕官経歴を見ると、そこには常に習近平による手配の影が見て取れる。馬興瑞には強力な後ろ盾があり、重大な失態があっても誰かが庇ってくれる。同様に、大きな不祥事が起きた際には、常に習近平の信頼を「裏切ること」になる。なぜなら、馬興瑞の失敗はすなわち習近平の失敗だからだ。

馬興瑞は習近平夫人の彭麗媛と同じ 山東省出身だ

なぜ張又俠は迅速に失脚し即座に公式発表したのに対し、馬興瑞は昨年7月1日に新疆党委員会書記の職から解任されたにもかかわらず、今日まで公式発表が先延ばしにされたのか。この大きな違いの理由は、おそらく単純である。

張又侠は習近平が警戒する実権者であり、奇襲的な方法で処理するしかなかった。即座に公式発表したのは、敵対勢力の残党を威嚇し、自身を守るためだ。一方、馬興瑞は習近平にとって何の脅威にもならないため、時間をかけて処理しても問題ない。さらに彭麗媛との関係もあり、どう処理するかは慎重に検討する必要があった。

では、政界には彭麗媛を筆頭とする「山東派」が存在するのだろうか? ある者は、馬興瑞が出世した宇宙・軍需産業系において、初期の後ろ盾が江沢民の長男・江綿恒であったことに注目している。

しかし、習近平が権力を掌握した後、最初に反腐敗で粛清されたのは江派であり、馬興瑞が急速に見つけた新たな主君は習近平であったはずだ。だが、その中で無視できない要素の一つが、彭麗媛との山東省鄆(ウン)城県の同郷関係である。

中共内の派閥には歴史的な由来がある

中共内の派閥には歴史的な由来がある。最も初期の派閥は、イデオロギーや路線闘争を基盤として形成した。中共革命の初期には、王明らが代表する留ソ派と、毛沢東が代表する本土派が存在した。いわゆる土地革命の段階では、各割拠地域の紅軍が派閥を形成していた。例えば、毛沢東の中央紅軍、張国燾の第四方面軍、劉志丹と習仲勲の陝北紅軍などである。これらの派閥は、延安整風を皮切りに繰り返された内部の政治粛清における判別基準となった

中共の建国後も、内戦期の野戦軍による派閥区分は長期にわたり残った。例えば、彭徳懐の第一野戦軍はもともと規模が小さく、廬山会議後に彭徳懐が粛清されると、第一野戦軍の勢力は姿を消した。第四野戦軍は林彪事件後に徹底的に粛清され、もはや存在しなくなった。鄧小平自身は派閥争いをしなかったため、彼が率いた第二野戦軍は何の恩恵も受けなかった。

唯一恩恵を受けたのは第三野戦軍である。第三野戦軍が占めていた華東地区は、もともと経済の中心地であり、各回の粛清の影響も比較的少なかった。改革開放後はその地位がさらに際立つようになった。加えて、第三野戦軍の人々は派閥作りが非常に巧みで、戦友を中心とした活動は毛沢東時代には禁忌としていたが、80年代の華東地区では非常に盛んに行われた。

この関係がいかに重要だったか。江沢民は89年以前から推薦されていたが、その推薦者は第三野戦軍の張愛萍であった。当時、第三野戦軍は中央政府の最高政治・軍事ポストを掌握していた。江沢民が「養父」と称する江上青は、まさに張愛萍の戦友であった。86年末の学生運動の際、江沢民は交通大学を訪れて学生に訓示を行った。それは単なる地方の出来事であったが、その映像を全国の大学で放映するよう指示した。

これは、当時すでに朝廷内で彼を支援する勢力が存在していたことを示している。もちろん、89年に全国の各省・市はまだ様子見をしていた中で、彼が率先して『導報』を弾圧したことも主要な要因である。

江沢民は確かに独自の全国的な派閥を形成しており、主に二つの部分から成っている。一つは法輪功迫害によって形成した「血の負債を持つ一派」もう一つは腐敗を野放しにすることで形成した官僚システムの利益集団である。この二つは重なり合っている。これが習近平が第一期任期中に反腐敗運動を展開した際、法輪功迫害が最も深刻だった政法システムが、最も厳しい打撃を受けた理由の一つである。

彭麗媛は習近平に挑まない 習陣営内部の争いも同様に残酷

一部で推測している習近平と彭麗媛の間の対立や不和は、果たして実在するのだろうか? 彭麗媛が習近平に挑戦することは絶対にない。この点は疑いようがない。しかし、毛沢東時代に残された派閥は消滅し、江派や共青団派も習近平によってほぼ一掃された。新たに台頭する派閥は、確かに地域と関連している。例えば、習近平が重用しているのは、自身が地方を統治した経験を持つ福建派や浙江派である。

「朝廷に味方がいれば官僚としてやりやすい」というように、彭麗媛を中心に山東派を形成するのは必然であり、馬興瑞が山東派の主要人物であることも事実だ。この派閥の権力と利益の源泉は根本的に習近平にあるため、決して習近平に挑むことはない。動機も能力もないが、彭麗媛との関係を利用して自らの勢力を拡大することはあるだろう。

彼らが習近平を怒らせるかどうかは定かではないが、福建派や浙江派が不満を持つことは十分にあり得る。習近平が旧来の派閥を一掃した後、彼を中心に新たな派閥が形成されるだろうが、その争いも同様に残酷なものとなるだろう。

実は歴史上、毛沢東と江青の関係という先例がある。江青は彭麗媛よりもはるかに政治的野心が強かったが、長期間抑圧され、文化大革命の直前にようやく自らの道を見出した。それは「モデル劇」を育成することであり、文化大革命が始まると中央文化大革命小組に入り、第一副組長に就任し、正式に権力圏に入った。彼女と毛沢東の間には対立もあったが、それはすべて家庭内の出来事であり、政治上、彼女自身の立ち位置は最も正確だった。彼女はまさに毛沢東の「飼い犬」であった。しかも、当時権勢を振るっていたとはいえ、「四人組」と呼ばれる他の3人のメンバーは、江青が登用した者は一人もいなかった。毛沢東の庇護を失うやいなや、彼女は即座に逮捕された。

一方、彭麗媛は今に至るまで自身の政治的軌跡を描けておらず、中共史上唯一の「夫人の参政」という例外である江青のケースを繰り返すことは不可能だ。もし習近平が自ら育てた馬興瑞を守れなければ、彭麗媛を守ることも当然できない。

習近平の統治下において、ある程度の内部的な忠誠心を伴う派閥が出現し、かつ利益供与が含まれている場合、それは大いなる禁忌を犯すことになる。陶駟駒が処罰を免れたのは、江沢民の治国方針が腐敗そのものであったからだが、習近平は少なくとも反腐敗を主軸としている。事態が習近平の退陣を招くほどにエスカレートすれば、誰かが責任を負わなければならない。

もしその人物が、あらゆる点において習の戦略的布石や人事の誤りと失敗を証明してしまうのであれば、捜査・処罰は避けられない。

責任編集:孫芸

横河
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