二つの祖国を生きて(上)

2005/08/18
更新: 2005/08/18

【大紀元日本8月18日】日本は本年、終戦60周年を迎えた。終戦のきっかけとなった人類初の原爆使用で、今もなお戦争の傷跡が残る広島に、もう一つの戦争の傷跡を背負う人々がいる。中国残留孤児が生きた戦後60年は、絶望の波間に時折希望が見え隠れする不安定なものだった。養父母に恵まれた孤児たちはほんの一握りであり、多くは貧困の中で、日本人であるがゆえに負い目を感じる、牢獄のような人生であった。その悲惨さに拍車をかけるかのように、中国共産党の圧政が彼らを恐怖と苦痛に陥れた。日本と中国、二つの祖国の狭間で翻弄された中国残留孤児たちの体験を通して、中国高官らの亡命や共産党から350万の中国人が脱退するなど、時代の転換点に置かれた中国共産党の悪政を検証していく。

敗戦で一家離散

60年前、まだ5歳だった伊賀乾次さん(65)=広島県東広島市=は満州にいた。終戦後の過酷な条件の中、ソ連軍に追われ、日本人(女性と子どもばかり)であふれかえる収容所に半年近くも拘束されていた。伊賀さんは生死の境をさまよっていた。

1940(昭和15)年、国の政策により満州開拓団として両親、兄、2人の姉の家族6人で中国黒龍江省方正県(ハルビンから東へ180キロ)に渡った。45年8月、ソ連軍襲撃により村は全焼、開拓団の人々はハルビンを目指してひたすら走った。皆がものすごい勢いで船にかけこんだため、まだ幼い伊賀さんは吹き飛ばされ、まっ逆さまに海に落ちるところだった。なんとか板にしがみつき、兄の一郎さんが大声で「がんばれー!」と叫びながら必死の思いで引っ張り上げてくれた。逃げる途中の船で母は弟を出産したが、食べるものもなくすぐに死んでしまった。

ソ連軍に拘束されている間、服など使えるものは奪われてしまったため、布団もなく毎日草の中で寝るしかなかった。ぼろぼろの服を着て髪の毛の中は草だらけだった。一握りの大豆しか食べられず、そのうち水さえもなくなった。ソ連軍は、ほとんどの井戸に薬を撒き、日本人らを殺そうとしていたという。ちょうど年の暮れだった。兄が、伊賀さんを抱いていた母の腕が固くなっていたのに気づいた。飢えと寒さで死に、硬直していたのだ。息も弱く、朦朧としている伊賀さんに気づくとすぐに雪を口に押し込み、間もなく息を吹き返した。10年近くに渡って中国へ入植した約27万人の開拓団のうち、3分の1が当地で亡くなったという。

父親は終戦直前に入隊、シベリアに抑留された。シベリアへ向かう日、偶然にもハルビンへ逃げる伊賀さんらとすれ違った。ソ連軍に阻まれ話をすることはできなかったが、家族全員が顔を合わせたのはこれが最後であった。父は3年間、極寒のシベリアで鉄道建設を強いられた。その後日本へ帰国し、開拓団に行く前に勤めていた福岡の炭鉱へ戻った。57年、父は不運にも炭鉱事故で死亡した。日本へ帰りたくても帰れない伊賀さん兄弟のうち、終戦の翌年に養父のおかげで引き揚げることができた兄だけが、父と再会することができた。

中国人養父母に恵まれる

収容所で今にも死にそうだった伊賀さんは養子として引き取られた。2人の姉もそれぞれ別の家の養子となった。1万人を超えると言われる孤児が中国人の善意の手によって育てられた。苦しい生活の中で養父の親戚が学費を貸してくれたため、当時100人中5人しか行けなかった中学校をなんとか卒業することができた。寮に入るお金も自転車を買うお金もなく、毎日往復16キロの道を歩いて通った。伊賀さんの養父には3人の娘がいたが、小学校でさえ通うことはできなかった。こうして帰国まで20年近く小学校の教師を勤めた。方正県は特に孤児の多い地区だったが、貧乏な家や鬼のように働かせる家もあり、学校へ通わせてくれる家は少なかったという。

「小さいころから『小日本鬼子』(日本の鬼)と罵られることもありました」。日本の家族に手紙を出すと、「日本のスパイ」だと言われた。日本へ帰りたかったが、開拓団行きを強烈に反対していた実母の親類は伊賀さんらを突き放した。独学でおぼえた二胡の切ない調べが、寄る辺のない伊賀さんの心を慰めた。

念願の帰国

日中の国交が正常化し、兄の手続きによってやっと祖国日本へ帰国できる日が来た。伊賀さんは命の恩人である養父母を看取るまでは日本へ帰れないと思っていた。養父母はいつ息子が帰国するのか心配でたまらなかった。養父母が病死し、思い残すこともなく晴れて日本へ飛び立った。退職金で買った飛行機のチケットを手にして。

76(昭和51)年、3人の息子を連れ一家5人で、兄を頼って広島へ向かい、仕事を求めて東広島市に移り住んだ。日本語が全く話せない伊賀さんをある鉄工所が雇ってくれた。生活費や学費の保護だけでは足りず、息子らは新聞配達をしながら学校へ通い日本語を習った。そのうち、多くの残留孤児の家族が仕事を求めて東広島に住むようになった。市役所の福祉課長が彼らの面倒をよく見てくれた。「布団を届けてくれたり、旅行へ連れて行ってくれたり、どれだけ助けられたことか…」。帰国後の苦しい生活を支えたのは同胞だった。

残留孤児がみた中国共産党

現在、伊賀さんの3人の息子はそれぞれ中華料理店を構え、伊賀さんは日中親善協会の理事として、日中友好の架け橋の一員となっている。しかし、中国で過ごした36年間で中国共産党の恐怖も嫌というほど味わった。「中央政府から地方に処刑人数が命じられました。中国共産党に反抗しないための見せしめです。友人も処刑されました…」。唯一話してくれた体験だ。

「戦争がなければ、家族はみんな今も元気に生きていたでしょう。幼くして別れた実父母の顔を私は覚えていません。ただ一枚の写真と苦しかった思い出だけが残っています。中国では、どんなに努力してもずっと苦しい生活でした。私は帰国して自由を得ることができましたが、第二のふるさと中国にいる親戚、友人、民衆がこの恐怖から逃れ真の自由を得ることは難しい。表では中国は成長を遂げ自由を獲得したように見えますが、本当に苦しいのは田舎の人達です。海外からは中国の内情を知る由もありません。しかし、最近、どんな手段を使ってでも民衆を絶対服従させてきた中国共産党から、350万人もの中国人がネット上で脱党声明を出しています。民衆の心からの声が、希望が形となり、中共による恐怖主義が崩壊し、新しい中国に生まれ変わる日は近いでしょう。さらに多くの中国人が目を醒まし、そして日本の私達が支援をすることで、本当に互いのことを理解し合った真の日中友好が築けると思います。そのために私は実体験者として、私の見た恐怖のすべてを、体験したすべての真相を知ってもらいたい」。

60年前の恐怖体験を思い出しながら言葉を詰まらせ、遠くを

中国で愛用していた二胡と伊賀さん

見つめた。

※那慧心…日本生まれの残留孤児三世。中国共産党の悪政を検証するため、取材活動を展開中。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。