【大紀元日本7月23日】東荘という所は、北京で生まれ育った人でもほとんど誰も聞いたことのない場所である。別にそれほど辺鄙なところにあるわけではなく、第二環状と第三環状の間にあり、北は陶然亭公園に隣接し、市の中心部に位置する。公園の東門を出た所に、全国人民代表大会直訴受付所と国務院信訪局(直訴受付局)がある。全国各地から北京へ直訴にやって来た人たちがこの一帯に集まり、一つの村を形成している。中国語では「上訪村」(直訴村)と呼ばれている。ネット作家の楚望台氏、三日間この村を現地取材して、直訴者たちの悲惨な生活状況を明らかにした。記事は原作からの抜粋であり、タイトルを一部変えた。
●直訴の道は不帰の道
2月28日、私たちは、直訴者たちの生活状況を伝えるドキュメンタリーを作ろうと、直訴村に入ったのだが、そこでの生活は私たちの想像をはるかに超え、劣悪で悲惨なものであった。
私たちがあるドアを軽くノックしたところ、誰かがドアの隙間から私たちをじっと観察していた。私たちがドアの隙間から身分証を手渡すと、しばらくしてやっとドアが開けられた。5~6平方メートルしかない狭い部屋に20人余りが住んでいた。部屋には窓がなく、ぼろぼろの板で蚕棚が作られており、最上段はほとんど天井に届きそうであった。屋根瓦はすでに一部崩れ落ち、部屋の真ん中から空が見えた。
(大紀元)
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私たちがカメラを回すと、にわかに泣き声が起きた。直訴者たちは自分たちの冤罪を訴える資料を胸の前に掲げた。彼らはこのようなポーズをこれまで何度もとってきた。彼らは泣きながら訴えるのだが、地方なまりが強くてなかなか聞き取れない。ただ、彼らの悲しみと虚しさは言葉がなくても伝わってきた。直訴者たちは法律の知識に乏しいという人がいるが、実際には、私たちがここで会った人はほとんどみんな法律の専門家とも言えるほどで、多くの人が『憲法』を暗記していた。ただ、こういった体制の下では彼らはどうすることもできない。たとえ中央の直訴受付所が何らかの回答をしたとしても、それはただ単に「通行証」を出してボールを直訴者の出身地に蹴り返すだけである。地方政府が取り合ってくれなければ、彼らはまた仕方なく北京へ帰ってくる。この険しい直訴の道を、一年また一年と苦しみに耐えながら歩き続けるしかないのである。
(大紀元)
ある直訴者が、自分たちでまとめた、二本の路地に住む直訴者リストを渡してくれた。450人のうち270人余りが10年以上も直訴し続けている。私たちは70歳になるあるおばあさんに出会った。33歳のときから直訴を始め、収容、送還、拘禁、精神病院送りを199回も繰り返し、人生の大半を直訴で過ごした。「私には息子と娘が一人ずついるが、連絡はとっくに途切れている。会いたいとも思わなくなった。会ったら子供たちに迷惑をかけるかもしれない。この37年間で涙も涸れてしまった。今は何も考えたくない。いつ死んでもかまわない。」
収容、送還という制度が廃止されるまで、直訴者たちは北京の町に出ることさえ怯えている。安徽省からやって来た陳国柱さんがこんなことを言っていた。「わしらは出稼ぎ農民とは違う。彼らは送還されてもそれだけだ。わしたちは送還されたら死ぬしかない。この人たちを見てごらん。田舎で生きる道があるなら北京なんかへ来やしない。わしたちは、ここで凍死しようが餓死しようが、決して人の物を盗んだり奪ったりなんかしない。万が一送還されたら絶対殺されるからね。」
今でも彼らは、しょっちゅう村にやって来る警官に気をつけなければならない。警官と警察住民合同治安維持隊がよく夜中にドアを突き破って入って来ては、身分証を調べて、人を連れていく。どこへ連れて行かれるのか誰も知らないが、逃げ帰って来られる人はほとんどいない。私たちが取材に行った前の晩にも、「山東済南精神病院」と名乗る人たちがやってきて、一軒ずつ調べては、山東から来た「精神病患者」を車に押し込んでどこかへ連れて行った。
●公正を乞うが、食べ物は乞わない
お昼時に私たちが別の部屋に入ったところ、直訴者たちが車座になって食事をしていた。みんな手にカップラーメンのカップを持ち、中にはお湯で煮込んだだけの白菜が入っていた。直訴者の徐娟さんによると、部屋の家賃は拾ってきた廃品を売ったお金で払っており、付近の廃品は全てなくなってしまった。そこで仕方なく遠くまで出かけ、町の隅々からペットボトルを拾ってきてはお金に換える。だいたい4、5元になり、それを一日分の家賃に当てる。食べ物はというと、近くの野菜市場で店の人が捨てた野菜を拾ってくる。「鍋も拾ってきたもので、内装用のペンキの入れ物です。きれいに洗えば、煮物をするのに使えます。」
このような生活は、「上訪村」の中では一番いいほうである。廃品を拾う気力もない人は、線路脇の低い壁に木切れとビニールシートで作った小屋に住むしかない。両側を風が吹き抜ける中、そこで寒い冬を過ごすのである。彼らの小屋は、市の管理所に何度も潰され、そのたびに作り直すのである。近くに住む村人の話によれば、去年の冬、ある老人が木切れを拾いに線路の向こう側に走って行ったところ、線路に躓いて倒れ、列車に両足を轢かれてしまった。彼らは、病院に行くお金もないので、病気になったら我慢するしかなく、運が悪ければ死ぬしかないのである。それでも彼らは、食べ物を乞いに行くことは滅多にない。「わしたちは北京へ公正を乞いに来たのであって、食べ物を乞いに来たのではない。首都には外国人も多いから、わしたちは国のイメージを壊すわけにはいかない。」直訴者の鄒来順さんが真面目に語った。
(大紀元)
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粗末な小屋さえも建てられない人は、ビニールシートを身体に巻いて開陽橋の地下通路に寝るしかない。ここを通る人は、いつも鼻を押さえて急いで駆け抜ける。北風が地下通路を吹き抜けると、まるで氷貯蔵庫のように寒かった。大晦日の夜、私たちが食卓を囲んで「豊かさを享受」し、花火が町の夜空を明るく照らしている時、二つの命がこの通路で静かに消えていった。
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直訴村のすぐ横が繁華街の開陽路である。鉄橋の上から見ると、天国と地獄が低い塀によって仕切られているのがわかる。
夜、私たちは直訴村に宿泊した。村人たちは、私たちのために場所を開けてくれた。私たちはなかなか眠れず、ベッドで何度も寝返りを打った。カメラに向かいたがらない人もいる。公衆が注目してくれても、彼らにはいかなるメリットももたらされず、逆にそのたびにここから追い出されるだけだった。近くの教会や大学も生活用品を届けてくれたことがあるが、そのわずかな援助でさえも、村にいる私服警官の目を盗んでこっそり行われているのである。私たちが、帰って募金活動でもしようかと話していると、ある直訴者が自分の直訴資料を持ってきて、是非持って帰ってほしいと言った。ただ、私たちは、直訴によって問題が解決されるのはわずか2%しかなく、宝くじを当てるより難しいということを、彼に伝えるに忍びなかった。ここにいる全ての人は、共産党や中央政府に対して敬虔である。彼らは、自分たちの冤罪は地方官僚の腐敗によって作り出されたもので、中央政府が自分たちの資料を見たら、きっとその冤罪を晴らしてくれるはずだと信じている。この単純な敬虔さゆえに、彼らは北京に留まり続けることができているのである。「胡主席はこのすぐそばにいるんだ!」
●大金を使って直訴の道を遮断
直訴村から国家信訪局(直訴受付局)まで2キロしかないが、至るところに危険が潜んでいる。
陶然橋まで歩いたところで、サイレンを鳴らしながら通り過ぎるパトカーを何台も目にした。さらに数十メートル進むと、青と白の線の入った公検法(公安、検察院、裁判所)専用車が100台以上国家信訪局の前に並んでいる。信訪局は袋小路の中にあり、全国各地から地元の直訴者を捕まえにやってきた人たちが、袋小路の入り口をしっかりと塞いでいる。
地方が安定しているかどうかは、直訴者の数によって判断され、地方官僚の成績も自ずと直訴者と関連がある。そこで、各地方は、警察を動員して直訴者たちを連行するのだが、それは今では公然の秘密となっている。しかも、連行する場合、コストを無視する。彼らは通常、第二環状と第三環状沿いのホテルか招待所に住んでいる。一回の連行費用と連行員に対する賞金は想像も付かないほどである。「飛行機で連れ戻された人さえいるよ」と、家主の李さんが教えてくれた。
(大紀元)
連行員たちはすべて警察の制服を着て、路地の入り口と信訪局の入り口、そして信訪局内にそれぞれ検問所を設ける。数百名の警官がこの狭い路地にひしめき合い、路地の両脇に二列に並ぶ。信訪局に入ろうとする直訴者は、どうしても列と列の間に残された狭い通路を通らなければならない。連行員は、そこを通る直訴者を捕まえてはなまりを聞き、身分証を調べる。その直訴者が自分の地元から来た者でなければ通すが、もし地元から来た直訴者を見つければ、即刻連れて行く。反抗したら、5、6人が一斉に殴ったり蹴ったりして、むりやりパトカーに押し込む。
私たちの場合は、北京の身分証のおかけでこれらの関門を通り抜けることができた。ただ、100メートル足らずのこの短い路地を通るのに、途中何度も捕まえられて調べられたため、一時間近くもかかった。幸い、身体検査はなかったが、もしそんなことがあれば、きっと酷いことになっていたであろう。私たちでさえこんなに酷い目に遭っているのだから、直訴者たちは言うまでもない。自分が中でどんな目に遭ったかは話したくない。直訴者たちは私たちよりはるかに悲惨だ。元々、近距離から連行の場面を撮りたかったのだが、連行員の数が直訴者よりはるかに多いのを見て、断念せざるを得なかった。町に戻ってタクシーを捕まえ、車内から路地の入り口を撮影しただけで、そのまま帰るしかなかった。
これは、私が三日間で見たり聞いたりしたことである。私は、自分の人格に懸けて、ここに記したことが全て真実であることを誓う。カントは、「知識人は社会の良心である」と言った。もし、私が知識人であり、私にまだ良心があるなら、この言葉から私が感じるものは、光栄ではなく、深い恥辱である。私は唯一、今後新たに現れるであろう直訴者の中に自分の母親が含まれないことを願う。
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