【大紀元日本4月25日】失脚した薄熙来前共産党重慶市委員会書記の周辺に起こる騒ぎは、今だ落ち着かない。部下の米国亡命騒ぎ、後妻による英国人ビジネスマンの殺害容疑、米ハーバード在籍中の息子の失踪。中国当局は汚職調査の一環として、一族の海外資産の調査に特別班を派遣したという。最近では、前妻との間の息子・李望知氏(34)が大学時代、天安門事件の学生リーダーと友好関係にあり、人権保護や民主活動に興味を持つ人物であったことが、明らかになった。
六四天安門事件の当時、学生リーダーだった唐柏橋氏は、コロンビア大学在籍中に交友のあった薄氏の最初の息子である李望知氏について、大紀元の取材に対して答えた。しかしながら、左派のネオ毛沢東主義者で共産党幹部である薄氏の長男が、なぜ天安門事件の学生運動リーダーと親しくなれたのか? ことの経緯について、詳しく唐氏は大紀元に対して話した。
民主主義の息子 ネオ毛沢東主義者の父親
唐氏はコロンビア大学に入学した2001年9月、始業日の自己紹介の時、自身は民主主義活動家で天安門事件の元学生リーダーであり、中国で2年間の刑務所生活を送ったのちに1992年に米国へ亡命したと、クラスメートに自己紹介した。
その授業の後、一人の若い中国人学生が「ぜひ友達になりませんか?」と声をかけてきた。彼こそ薄熙来前共産党重慶市委員会書記の息子、李望知氏だった。
望知氏の母親である李丹宇が薄氏と離婚したのち、望知氏は「薄」の名を名乗ることを止めた。父親を、自身の昇格のために妻と子供を捨てた宋朝時代の事業家・陳世美に例え、嫌っていたという。
唐氏は当時の望知氏が「若く、勇敢で誇りを持った人物」という印象を受けた。その時、彼が党幹部の息子だということを知らなかったが、中国の政治や社会について熟知している人物だった。「彼の仕草、話しぶり、また上層階級への理解などを見れば、幼少から高い水準の教育を受けていたことが良くわかった」と唐氏は話した。
2001年、唐氏は感謝祭のお祝いに望知氏を招いた。しかし望知氏は丁重に断わった。「彼は、私たちが友人であることを知られるのを望まなかった」という。後になって、唐氏はその理由を知る。
薄熙来氏のもう一人の息子、薄瓜瓜氏は英国と米国へ留学し、スポーツカーに乗って高級マンションに住み、有名人とナイトクラブで遊ぶなど、派手な生活を送っていたことで知られる。瓜瓜氏とは正反対に、望知氏は「控え目で、他の交換留学生と変わらない」学生だったという。他の学生とアパートで共同生活を送り、車を持たず電車通学していた。
理想主義と民主主義
2人が最初に議論した話題は、六四天安門事件についてだった。望知氏は当時、事件を理解するには幼すぎたが、後に北京大学法学院の教職員であった事件参加者と交流したことで、真相を知ったという。これをきっかけに、李は当局の宣伝工作の嘘を知った、と話している。
感謝祭の日、望知氏は、人権や民主主義に多く言及した自身の個人サイトを唐氏に伝えた。また、20年間を刑務所で過ごしだ人権活動家の論評を、ウェブ上で共有しあったとも唐氏は話した。「望知氏が共産党の人権侵害を嫌い、中国の民主化を望んでいたことが伺える」「彼のような存在の人物がそうするのは、非常に危険なことだ」と付け加えた。
唐氏が語る「望知氏らしさ」とは、チャイナタウンで良心的な値段の店を友人に教える、満員のエレベーターでは進んで先に降りて譲る、などだ。中国人の他の友人が「薄熙来の息子」と友人になったことについて聞いてきたが、望知氏は、決して野心家の薄熙来の息子だとは思わせない人物だと唐氏は考えていた。
しかし、2人の友情は長くは続かなかった。2001年のクリスマスの直前、望知氏は数日の間、姿を消した。薄熙来氏の妹や中国共産党員が、望知氏をボストンへ呼びよせ「反革命分子との交流を止めるように命じた」と、後になって友人から聞かされた。その後、2人は学内で会っても、会話を交わすこともなくなったという。
(つづく)
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