【大紀元日本5月31日】1989年6月4日に起きた天安門事件の凄惨さを物語る1枚の写真がある。両足が戦車に轢きちぎられた学生が写ったものだ。その学生が22年後の今月27日、カナダのトロントで開かれた六四天安門事件の記念集会に参加した。
方政さん、1966年生まれ。安徽省出身。1989年6月4日、北京体育大学4年生だった方政さんは天安門広場にいた。その日の朝6時ごろ、天安門広場を後にする方さんと他の学生たちは、広場にほど近い六部口で、後ろから人民解放軍の戦車に追いかけられた。方さんはその一台に倒され、キャタピラーが彼の足を押しつぶし轢きちぎりながら通り過ぎた。
再び目が覚めたのは次の日の昼。北京の積水潭病院ですでに両足の切断手術が施された後だった。1日か2日後には、彼はベッドごと、病院の医師と看護士に押されて病院内を逃げ回った。軍の人が捜査に来るという噂が伝わったからだ。その日は無事だったが、4日後の9日に、北京市公安局の人がやってきた。担架で病院の事務室に運ばれた方さんはそこで事情聴取を受けた。
数年後に、方さんは自分のあの有名な写真を目にすることができた。写真に写った、自分の足に包帯で巻く人に、方さんはいまも感謝している。「この人の冷静で適切な処置がなければ、私はもうこの世にいない」と語る。
我が子を天安門事件でなくした母親たちが結成した組織「天安門の母」の調査によると、方政さんが轢かれた六部口だけで、死傷者は14人に上り、13人は名前・年齢・所属・けが状況・死亡原因など詳しい状況が突き止められている。
「戦車」と言うな
事件後大学に戻った方政さんは大学側に「戦車に轢かれたと言うな」と口止めされた。「軍の車と言えばいい」という。方さんは拒否した。「あれは戦車だということを私は知っている。決して普通の軍の車ではない」。「我々は平和的かつ理性的に天安門広場を離れていた。それでも彼らは我々を追いかけて殺そうとした。その理由は何なのかいまもわからない」
その後、方政さんは「制圧待ち人員」としてブラックリストに載せられた。1カ月に一度派出所に現状を報告させられ、3カ月に一度公安の人が家に巡察にくる。方さんの父親も彼の情報を得るための情報源とされた。「敏感」な時期(天安門広場の記念日など)となると、電話が通じなくなり、旅行や友人と集うことも制限を受けていた。体育大学出身の方さんは、障害者スポーツ競技に参加するにしても、突然参加資格が取り消されるなど、スポーツの道も閉ざされた。
2005年5月、方政さんは本紙記者の取材を受けた際、実名で中国共産党からの脱退を宣言した。
2009年、方さん一家は、アメリカ在住の清華大学卒業生が設立した人道救助団体「人道中国」の助けのもとで、アメリカにたどり着き、天安門事件から20年後、再び自由な生活を手に入れた。
私は英雄なんかじゃない
「私は英雄なんかじゃない。特別でもない。六四天安門事件で、多くの人が多くのことを犠牲にした。多くの人が長い月日が経った今も、六四の精神を貫いている。この精神こそもっとも価値のあるものだ。私は経験者の1人に過ぎない」。方さんは27日にトロントの天安門事件記念集会で語った。
「方政」はいま、中国のインターネットで「敏感語」となっており、彼に関する情報はすべて削除されているばかりか、ブログも実名では開設できない。「ネットは中共政権がもっとも恐れていること。専制に対抗する有効な手段だからだ」と語った方さんは、民衆から思想と魂を奪おうとする中共政権の本性が、その自らの存在を滅ぼそうとしている、と指摘した。
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