【大紀元日本5月10日】数年前に読んだある文で、中国の一般国民の間に「反精英(エリート)感情」が生じていると書かれていた。エリート階級のだれかが不運に陥ったと聞くと、インターネットでは大勢の喝采が上がる。私もこの現象に気づいた。しかし、エリート階級への反感がどれほど根強いものか、実感はなかった。先月末、ツィッターで「精英」という名詞をめぐる論争から、この種の感情を深く洞察する機会に恵まれた。
今回の論争の原因は実に簡単だった。4月下旬、私は「中国の未来への憂慮」と題する文の副題として「中国精英階級の憂慮」と付け加えた。すると、ここでの「精英」という名詞の使用に、一部のネット友が、主に次のような異議を唱えた。
一.中国にはいわゆる「精英」がいない。貴族がいないのと同じである。
二.「精英」という名詞は不適切であり、このグループだけが社会の精髄と諭す意味があり。一種の傲慢と不平等の意識を宣伝している。
三.中国の「精英」は道徳がない。だからエリートではない。さらに、共産党の擁護者はエリートと見なしてはならないとの意見もある。
四.「精英、草の根」およびその他の社会階級を定める用語システムを根底から廃止すべき。あるネット友はもっと果敢に、「精英や草の根は、勝手に勘違いして使われている言葉だ。民は5つのグループに分かれている。「大泥棒、中泥棒、小泥棒、庶民、被害者」である。
私はこれらのネット友にこう説明した。
「いかなる研究にも、専門の用語システムが必要だ。研究者が自分の観点と意見を示すとき、必ずこの用語システムを使う。『精英』という名詞は『草の根』の反対語に過ぎず、その定義はとても簡単だ。すなわち、良好な教育を受け、政治や経済および文化の資源を保有している人たちであり、道徳の意味合いがない。もし『精英』という用語に道徳の意味を加えるとしたら、この言葉を使う人々は困惑してしまうだろう。一部の上層階級の『精英』が、複数の愛人を抱えるとか、汚職とか、不正流用などの道徳にも欠く行為を犯した場合、反対語の『草の根』の階級に落していいのですか。もし、『精英、草の根、上流階級、中流階級』という社会を分ける用語システムを廃棄すれば、「中国社会各階級の分析」という論文を書く場合、次のようになってしまう。『序言:中国各階級の泥棒の内包と表面の意味第一章:中国の大泥棒の属性、第二章・・・・・・』これは学術研究には適さない」
論争に参加した方々は概ね、私の上記の説明に納得したようだが、依然として、数人のネット友は「精英」という用語は中国の政治・文化の主導者たちを粉飾していると指摘した。そして、張芸謀氏(注・中国映画監督、北京五輪の開会と閉会式のプロデューサー)を実例として挙げ、「『精(損得の計算に精通する)』ではあるが、『英(人中の英才)』ではない」と論じた。
ネット友が中国のエリートの存在を否定するこの傾向に私は強い関心を抱いた。なぜならば、これは社会転換期における感情の一種の反映だからだ。私からみれば、この種の情は、少なくとも次のいくつかの問題点を現している。
一.中国エリート階級は彼らの本来の責任を果たしていない。いかなる社会にもエリート階級がある。しかし、毛沢東時代の中国ではそれは異端者であると定めらていた。理由の一つは、毛沢東氏本人は非常に反エリートと反知性だった。事実上皇帝の座に就いてからも、その生涯において革命者から執政者への心理転換ができなかった。「文化大革命は7、8年に一度行うべき」との「名言」はまさに反エリート感情の表れだ。また、毛沢東氏が率いた革命は社会のエリートを消滅する革命だった。中国で改革開放が始まってから、「工人階級はリーダー階級」、「高貴の者は最も愚かであり、卑しい者は最も聡明である」という毛沢東思想が、現実に徹底的に否定された。「精英」という用語も徐々に中国の学術研究と各種の評論文章に用いられ始めた。
1980年代から90年代初めまで、中国社会では草の根からエリートに上昇する道に、あまり障害がなかった(省クラス、庁クラスの汚職幹部、学者出身の幹部も含めて、その多くは農家あるいは一般家庭の生まれである)。「精英」という言葉には中国的な内包が与えられ、「ある分野で社会、国家には著しい貢献があり、場合によっては政府の政策や国家の発展方向に影響を与えることのできる人」と拡大された形で。巷での庶民の解釈はすなわち、「能力と技量の大きい人」。その時期においては、エリートと非エリートの人たちは皆、エリート階級には、一定の社会的責任を果たすべきという共同認識を持っていた。
1990年代、改革が権力市場という岐路に堕ちてしまってから、中国のエリート階級も徐々に堕落し始めた。その階級は権力を濫用して公共資源を分割・略奪し、しかも益々やりたい放題となた。数え切れないほどの実例からみえてきたのは、政界のエリートと汚職は連体関係になったことだ。経済界のエリートは公権力と結託して国家資源を不法占有し、しかもまったく社会的責任感がない。知識層のエリートは政界・経済界のエリートを代弁し、しかもまったく恥を知らなくなっってしまった。エリート階級が厖大な利益を得たため、エリート階級への信頼が低下し続けている。草の根たちは道徳の面においてエリート階級に否定的な態度を抱くようになった。これが反エリート感情が生じる主な原因だ。
二.エリートになれる体制にも深刻な問題がある。官職の売買は昇進のルートだ(女性幹部はベッドから育成すると皮肉られている)。就職難が深まるに伴い、新卒の大学生が失業に直面するという現象になり、中国の大学は「中産階級を育成する」機能を失ってしまった。就職の競争も就職者の家柄の競争と化している。エリートが誕生する体制からみると、中国は身分型社会に戻りつつある。すなわち、エリートになれるかどうかは血筋が決定要因になっているのだ。
かなり前に、私は2種類の階級観点に気づいた。一種はマルクス主義の階級観点。無産階級は有産階級(エリート階級)に否定的な態度を持っており、暴力の手段で有産階級を倒して、その座に就いた。社会の中低階級から出世できる望みがない社会において、エリート階級への懐疑と敵視情緒が生じやすい。この種の極度な社会の緊張状態が、まさに、マルクスの階級闘争の理論が誕生する温床となった。もう一つの階級観点は、アメリカの経済学者・社会学者のヴェブレン氏の観点だ。同氏はマルクスの階級闘争の観点を反対していた。社会の中低階級による上流階級への妬みは、通常、自己の努力を経て上層階級の一員を目指したいという望みの現れである、と同氏は認識する。中低階級が自らの努力で出世できる社会において、ヴェブレン氏の観点は通用する。
中国の問題点は「精英」「草の根」のような名詞を使用すべきかどうかにあるのではなく、エリート階級が特権を有しながら責任を果たさない、草の根たちは権利を持たず義務ばかり強いられるという不平等な社会現実を変え、社会の緊張状態と階級の対立を解消するしか道はないと、私は認識する。
※何清漣:ニューヨーク在住の中国人経済学者・ジャーナリスト。54歳、女。中国湖南省生まれ。混迷を深める現代中国の動向を語るうえで欠かすことのできないキーパーソンのひとりである。中国では大学教師や、深セン市共産党委員会の幹部、メディア記者などを務めていた。中国当局の問題点を鋭く指摘する言論を貫き、知識人層から圧倒的な支持を得たが、常に諜報機関による常時の監視、尾行、家宅侵入などを受けていたため、2001年には中国を脱出して米国に渡った。1998年に出版した著書『現代化的陥穽』は、政治経済学の視点から中国社会の構造的病弊と腐敗の根源を探る一冊である。邦訳名は『中国現代化の落とし穴』。
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