元内閣官房参与・中山恭子氏「国際テロに遭った日本人被害者を救出するのは、日本政府の使

2006/08/12
更新: 2006/08/12

【大紀元日本8月12日】旧大蔵キャリ官僚、国際交流基金常務理事、ウズベキスタン特命全権大使内閣官房参与などを歴任、現在は早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授の中山恭子氏(66)が7月31日夕、東京都品川区の中小企業センター大講義室で、「グローバル・イシューズ総合研究所」の招きにより、「アジアと日本」というテーマで講演を行い、ウズベキスタンでの大使としての生活、中央アジア現地の情況、官房参与としての北朝鮮拉致案件について語った。

中山氏はまず、1999年8月から中央アジア・ウズベキスタンに特命全権大使として赴任した経験を述べた。中央アジアのタジキスタン、ウズベキスタン、パキスタン等、「スタン」は現地語で国を意味し、それぞれタジク人の国、ウズベク人の国、パキ人の国であると説明。旧ソ連邦に属した各自治領、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの5カ国、これにアフガニスタンを加えた6カ国が中央アジアであると説明した。東に中国を臨み、北にロシア、西にカスピ海と東欧に隣接し、ウズベキスタンは戦略的な要地であると強調した。

同年夏、中山氏はキルギスで日本人鉱山技師4人がイスラム原理主義グループに拉致された案件を処理した経験から、後に官房参与として北朝鮮拉致案件に係わったという。ウズベキスタンの77%を占めるウズベク人は「日本人そっくり」の容貌をし、極めて親日的であると述べた。生活様式も畳こそなく絨毯であるが、夜は「敷き布団」「掛け布団」で就寝し、コタツで一家団欒を楽しんでいるという。現地人は「容貌だけでなくわれわれは日本人と心が似ている」と言い、日本人に対して、極めて好意的な社会だという。

ウズベキスタンでは、1945年から46年の間、シベリア抑留日本人(POW)

25000人が連行され、現地のインフラ工事に投入されたという。その日本人たちの当時の仕事ぶりはとても丁寧で、その「成果」が現在でも現地に残っており、現地人たちは当時の様子を思い出し語っているという。ウズベキスタンの首都近郊・デカバードの市長によると、現地の水力発電所に使用される巨大貯水槽は当時の日本人が「手掘り」で構築したものだという。同市は、砂漠の中のひなびた町であったが、この水力発電により緑化し、以来55年間休まず電力が供給されていると今でも感謝しているという。

また、首都の「ナボイ劇場」も日本人捕虜が使役されて建設したものだが、当時首都近郊の「日本人強制労働収容所」近くに居住していた現地人は、「少年の頃、よく収容所の壁の隙間から、日本人収容者に自家製のパンや果物を差し入れていた」という。現地は寒暖の差が激しいために、果物の糖度は非常に高く生育する。ウズベクの家族は、祖父母が孫と暮らすという昔ながらの「三世代同居、日本人家族の原型」を現在まで保持している。壁に囲まれた大家族の各家には、「葡萄」「杏」「桜」などの木が植えられており、当時の日本人捕虜の食糧事情を心配した現地人が食糧を差し入れると、数日してこれら日本人捕虜たちは、何と手作りの「玩具」を同じ場所に置いて謝意を表明したという。これらの行為は、現地人の道徳的規範として賞賛されていたという。

中山氏は「結局、国と国とのつながりは、人と人とのつながり」と述べ、現地では、日本人捕虜の埋葬された墓地の位置を現在でも現地人が記憶しており案内してくれているという。シベリア抑留者が「二度と思い出したくない」と言っているのに対し、ウズベク引揚者らは国内で良く連絡を取り合い、また現地に行って「ウズベク人との交流」を望んでいるという。日本大使館の調査によると、デカバード近郊の日本人共同墓地跡には、「土饅頭」が点々と有り、埋葬された人たちはみな20代の「若い日本人」であることが判明したという。中山氏は現地に桜を植えることを決意、2002年3月に桜の苗木1300本を「各日本人墓地」「タシケント中央公園」「首相官邸」などに植樹した。

1999年の「キルギス日本人拉致案件」については、参与した犯行グループは、イスラム原理主義に属し、92年の独立当時にイスラム国家を作ろうとしたが政府に鎮圧された者たちだという。彼らは後にアフガニスタンに逃れ、「イスラム運動」を展開し、「タリバン」「アルカイダ」から資金提供を受けていたという。このグループはトルクメニスタン内にイスラム原理主義国家を作ろうとするもので、中央アジアのみならず、コーカサス、新疆ウィグル自治区からも若者を大量にリクルートしアフガン内のキャンプに送り込み、戦闘訓練を施したという。

アフガンは既に、国際テロの養成地となっており、世界各地の社会不安につけこむ自動車テロなどの実行犯が数多く巣立っているという。日本社会では一般的にテロに対する関心が薄いが、これら過激派は、日本が特別との意識はなく、すでに要員が国内に潜伏している可能性もあるという。首都タシケントでは、1999年2月に自動車爆弾による同時テロがあり、内務省、首相官邸、財務相、国立銀行、映画館、大衆レストランなどが標的になり、それ以来、「テロ対策の治安維持」に国政の重点が置かれたため「経済改革」が遅れてしまったという。これら中央アジアの国々が独立後いち早く着手したのは「共産主義を捨て去る」ことで、これら中央アジアの人々は、中国を尻目に共産主義に極端な嫌悪感を持ち、「経済の自由化」「社会の民主化」に一歩一歩全力で取り組んでいるという。

タシケントでの同時テロ事件以来、ウズベキスタン大統領とタシケント市長は、米国に対し「必ずや先進国でも同様のテロがある」とメッセージを発し続け、国際社会にも警鐘を鳴らしていた。しかし、小国であるがゆえに無視され、結局その二年後の2001年9月、「米国同時テロ」が起こった。そのパターンは、手段が飛行機か自動車かの違いだけで、「政経の中枢を狙う」テロの発想は全く同じである。タシケントから二年で米国、さらに二年後にはロンドンの地下鉄爆破があったことからすると、「同時爆破テロの準備」には、計画立案から実行まで、最低二年は必要なのだろうと中山氏は分析する。

また米国がアフガンを攻撃したからテロ組織は壊滅したとする認識は間違いであり、これら勢力は、パキスタンとの国境、イランとの国境、高山地帯に身を潜め、軍事訓練にはげんでいるという。これら国境の高山地帯は、政府がコントロールできていない、「無政府状態」の空白地帯であるという。これら空白地帯は、世界各地に点在し、そこがテロ組織の訓練キャンプ場になっているという。したがって、各国政府は、的確な情報をまず収集し、警戒を重ね、テロ実行犯が入国しないよう水際で食い止め、社会不安を引き起こさないようにすべきとの認識を示した。

中央アジアとアフガンは、4000年から5000年の歴史があり、伝統文化や習慣が強く根付いている一方、各部族はそれぞれ割拠し「戦国時代」のような情況があり、更に「イスラム勢力」が台頭するなど、政情不安な地域である。テロ実行犯がその不安定な政情につけこむと、社会不安から内戦になる可能性もあり、迅速な民主化は難しいだろうと中山氏は認識を示した。

中山氏は、中央アジアでの任務を終えると、「キルギス拉致案件」で成功を収めた実績が評価され、日本政府から北朝鮮拉致被害者家族と政府とのギスギスした関係を修復する仲介役を付託された。同氏は、中央アジアでの経験から「海外で拉致された日本人を救出するのは、日本政府の使命」との認識を示し、平壌当局による日本市民に対する「国際テロ」を譴責し断罪した。また、海外に拉致された案件を放置する国家は、絶対に救出するとの基本的姿勢を示さないと、国際社会から信頼されないとの認識を示した。

さらに北朝鮮が偽造ドル紙幣を製造したことについて、米国が経済制裁に踏み切ったことに言及、ドルが世界の基軸通貨であり、主権を侵害されたことからして「当然の措置」との認識を示した。また、北朝鮮には「偽造日本円紙幣」製造の容疑があると指摘した。

北朝鮮拉致被害者5人が日本に帰国した当時、最終的に5人を北朝鮮に再度送還するか否かという議論が政府内部で起き、意見が分裂した際、中山氏は「残留した拉致被害者を案じて、この5人を北朝鮮に再度送ってはならない」と強行に主張、これに若い官僚が賛同して最終的に官房長官が決断したと、当時の日本政府の対応について内幕を明らかにした。

「曽我ひとみさん案件」については、当時小泉首相が平壌で夫のジェンキンスさんに日本帰国を勧めた際、なぜこれを渋ったのかについて、ジェンキンスさん本人が平壌当局から「日本には行かない。ひとみを平壌に返せ」と言うように指導を受けていたという。隣室では特務機関員が小泉首相との会話を全て盗聴していたため、「すぐに日本に行きたい」ともし言っていたら、即命の保障はなかったと当時の情況について内幕を説明した。全く異質の社会が存在するという認識がなければ、対応を間違えると述べた。

また「家族対面の地」として当時、平壌当局は北京を第一候補地として挙げていたが、中山氏はこれに強行に反対し、次善策として北朝鮮と親交のあるインドネシアを選択、「第三国対面」に漕ぎ着けたという。当時、ジェンキンスさんを平壌から移動するのに日本政府が専用チャーター便を用意したことが成功の布石となった。機内で北朝鮮「指導員」がジェンキンスさんに耳打ちしていたが、ジャカルタ国際空港でタラップから降りてきた際にはジェンキンスさん一人であったため、中山参与と待機していたひとみさんがこれに駆け寄り、北朝鮮では禁止行為である「人前での抱擁接吻」を、国際プレスを通じて披露することになった。「もう絶対に北朝鮮には帰らない」という決意表明を世界に発信した彼女の勇気ある行為が、ジェンキンスさんに通じたのだと中山氏は高く評価した。

日本人を拉致した北朝鮮の工作員、シン・ガンス容疑者などは、国際的には犯罪者であるが、北朝鮮国内では「英雄」として評価され、一般市民より豊かな生活が保障されている一方で、拉致した日本人を監視する役目を担っているという。その日本人被害者は監視担当者の「生活の糧」となっているため、被害者が帰国しにくい情況は、北朝鮮の監視体制にも原因があると指摘、日本政府は北朝鮮の「ミサイル案件」対応で、拉致案件をないがしろにしないよう警告した。

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