【オピニオン】災劫弭化(さいごうびか)

2008/05/20
更新: 2008/05/20

【大紀元日本5月20日】中国の四川省とミャンマーが大災害に見舞われている。18日現在で、中国の四川省大地震では死者3万人超、被災者は1000万人を超える大惨事となっており、生存した人たちも水、食料、医薬品の不足などにより困窮しているのが実情だ。ミャンマーのサイクロンでは、情報が閉塞しているので実情が分かりにくいが、国連などの国際的な公的機関によると、その死者はすでに10万人を超えたという。

中国は共産党による一党支配、ミャンマーは軍事政権による独裁と、どちらも国際的な見栄があって、災害当初のファースト・ストライク72時間以内に素直に国際援助を仰がなかったことが、被災者の数をいたずらに増やした一つの原因だ。さらに、中国では現地にいち早く飛んだ温首相はよかったものの、党のパフォーマンスの域を出ず、まずは解放軍の緊急援助チームを被災直後に第一次投入すべきだったろう。

60年代の後半から文革を経た中国ではあるが、その悠久とした歴史に育まれた文化には広大なものがあり、その古い箴言には、東洋の英知を思わせるものが少なくない。例えば、「災劫弭化(さいごうびか)」「天人合一(てんじんごういつ)」などといったものがそうだ。

平たく大雑把に言うと、人間には悪い心と良い心があり、悪い心で思ったり行ったりすると、それが「劫」となって天に黒く蓄積し、「天帝」と人とを隔離する元となる。これでは、天は困るので、それを清算しようとたびたび災害をもって人に報い、また天を綺麗にして復元するというのだ。

しかし、毎回毎回そのようなことをして被災者を悪戯に増やすのも、民草たちが不憫なので、天は時節ごとに地上にそのメッセンジャーたる「聖人」を降臨させる。賛否両論あろうが、パレスチナのイエス、インドの釈迦、中東のマホメット、中国の老子・孔子などは、世界的に知られた聖者たちだ。

彼らは、地上に降臨するとまず民草の心を善に帰して、共同社会全体の道徳水準を上げようと努力する。そして、教えを通して民草を訓育し、その過程で人々の次元をさらにあげて集団の善なる力で劫を清算し、災難を未然に防ごうとする。

しかし現実はそううまくいくとは限らない。人間社会には、善人もいれば悪人もいるからだ。こういった聖人を信奉する人たちがいる一方で、特に権力者には心に魔性をもった人たちもいて、これらの教えを破壊する人たちも地球上には残念ながら大勢存在するのだ。

では、中央の政道はどうあるべきなのか。古代の中国では、帝の思いや一挙手一投足が天下の事情に反映するという「天人合一」の考え方があった。即ち、「王権の神授」たる政道のあり方で、共産主義政権が大陸で樹立される以前は、歴代の中国皇帝は麓に儒家の講堂をいただく泰山で「封禅の儀」を執り行い、天から権力を委譲される形をとってきた。

振り返って、ミャンマーと中国の現状を見てみた場合、こういった東洋の英知で量ってみたらどうであろうか。百歩譲って、一般の民草に劫も徳もないとしても、中央の政道には大いに問題がありそうだ。

ミャンマーは、民草が待望する民主運動家のアウンサン・スーチー女史を幽閉して軍事路線をひた走って恥を知らないし、中国では共産党が中原で法輪功をはじめ万教を弾圧してその伝統文化を破壊している。こうしたことでは、天人合一どころか天を知らず天に唾を吐く行為、まさに劫を積むこと天下の峻険の如し、いつ天災や人災などが起こってもおかしくない「現代のソドムとゴモラ」になっているのではないだろうか。

この両国には、信仰自由がなく、もはや「災劫弭化」は期待できようはずもない。更に民主的な選挙もないので、為政者が自らの政道を省みることもなく、天もなく地もなく、「天人合一」などあろうはずもない。こういった袋小路の国に残されたものは、残念ながら天帝による「覚醒の一撃」しかないと思うのは余人だけであろうか。

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