ワクチンメーカーに対する免責は撤廃すべき 製造者の責任を再考する

2026/02/26
更新: 2026/02/26

2月11日、ランド・ポール上院議員(共和党)は、草の根の支持が広がれば最終的な成立も十分に見込める、きわめて重要な法案を提出した。それは公衆衛生サービス法を改正する法案である。1986年に成立したワクチン製造業者に対する免責措置を撤廃する内容だ。マイク・リー上院議員(共和党)も共同提案者だ。

ワクチンに対する賛否がどうであれ、この法案には意義がある。ワクチンを市場経済における通常の製品として位置づけ、他のすべての医薬品や市場で流通する消費財と同様に、製造者が責任を負う仕組みに戻すということだからだ。これは業界を罰するためではない。特別な免除を取り除き、他の産業と同じ基準に従わせるにすぎない。

免責措置が導入されてから40年の間に、ワクチン製造業者は自社製品を小児科に持ち込み、すべての子どもに接種させることを目指して競い合ってきた。多くの場合、就学や課外活動への参加の前提条件として接種が求められている。何百万人もの人々が注射を受け入れざるを得ない状況にあるだけでも問題だが、仮に健康被害が生じても製造側が責任を負わないとすれば、それは看過できない。

こうした仕組みは、どの業界にとっても望ましいインセンティブとは言えない。むしろワクチンへの懐疑を強め、不安をあおる要因となる。複数回の接種であれ、一回の接種であれ、もし一般に安全で、リスクを大きく上回る利益があるのなら、なぜこのような免責が必要なのかという疑問が生じるのは当然だ。

当時は、訴訟が乱発され裁判所が機能不全に陥るという「責任危機」があるとの認識が広がっていた。ワクチンは社会に不可欠であるからこそ、業界には訴訟リスクから完全に解放される特別措置が必要だとワクチン業界が主張した。

1986年の公衆衛生サービス法は超党派の支持を受けて成立したが、それは重大な誤りだった。こうした特例措置に合理性はない。この種の免責は、結果に責任を負うことなく、必要なだけワクチンを製造すればよいという危険な動機づけを生む。市場経済の原則は本来そのようなものではない。損害に対する責任は、古くからすべての製造業者が負ってきた基本原則である。

これは企業活動の歴史全体に見られる原則である。紀元前1750年頃の古代メソポタミアのハンムラビ法典では、建築業者は損害に対して責任を負うと定められていた。粗悪な家を建て、それが崩れて所有者が死亡した場合、建築業者は厳しい処罰を受け得た。粗雑な仕事によって負傷や死亡が生じた場合、生産者が責任を負うという考え方は、すでにこの時代に認識されていたのである。この原則は英国の法律を経て現代に至るまで一貫しており、損害に対する厳格責任の原則は米国法にも確立している。

今日、子供への接種をめぐっては、どのワクチンを接種するのか、誰が判断するのかといった大きな論争がある。しかし特別な免責特権を廃止することについては、立場を超えて合意できるはずだ。ワクチンを支持する側にとっても、有効性を検証しつつ被害を最小化する仕組みは歓迎すべきものであるし、反対する側にとっても、通常の法的基準に従わせることは望ましいはずである。

とりわけ、ワクチンの被害を経験した人々にとっては重要である。新型コロナのワクチンに関する多数の報告は、免責によって訴訟の対象とならなかった。その結果、被害を受けた人々は十分な救済を得られていない。政府の補償基金に申請することは可能だが、この制度が機能不全に陥っていることは広く知られている。一般の消費者と同様に、裁判所にアクセスする道が必要である。

コロナ禍のさなか、民間企業が作業服やその他の労働条件と同様にワクチン接種を義務付けるのは問題ないと説明する人もいた。しかし通常、こうした義務付けは責任の所在と結びついている。たとえば雇用主がスカイダイビングを雇用条件とした場合、それを実行して死亡すれば、家族は不必要な危険を課したとして企業を訴えることができるだろう。

ところが企業が義務付けたワクチンで従業員が被害を受けても、本人や遺族には実質的な救済手段がない。製造業者が責任を負わない以上、企業も責任を負わないからである。こうした義務付けが不当であるとする理由はここにある。単なる「選択」の問題だとする見方とは異なる。もし損害に対する責任が明確であれば、雇用主も製造業者も義務付けの是非を再考する可能性がある。

18世紀後半にワクチンが初めて開発された当初から、その有害事象に関する記録は数多く残されていた。発明者はエドワード・ジェンナーで、のちに国王の侍医となった。一方、予防接種に反対した人物として、ウェールズ公妃の侍医であったジョン・バーチがいる。1805年、彼は「予防接種の危険性に関する公衆への訴え」を出版し、そこには多数の被害事例が報告されていた。

ワクチンはジェームズ・マディソンの「ワクチン接種奨励法」によって米国にもたらされ、希望者は無料で接種を受けられるとされた。しかし接種に伴う事故や誤りが相次ぎ、死亡例の報告を受けて1822年までに同法は全面的に廃止された。その後も南北戦争期の義務化の際に同様の事態が繰り返され、負傷や死亡の多発は業界の評判を大きく損なった。

19世紀後半になると、業界は功利主義と呼ばれる新たな哲学的装いをまとい始めた。一定の人々に被害が生じたとしても、十分な人数が接種すれば社会全体としては利益が上回る、という考え方である。この発想は、1905年の連邦最高裁判決「ジャコブソン対マサチューセッツ州」において明確に言及され、接種義務を法的に容認する根拠とされた。

もっとも、この判決は今年あるいは来年にも最高裁によって覆される可能性があると見られているが、製造業者の損害責任を免除したわけではなかった。1960年代から70年代にかけて接種対象が増えるにつれ、副作用への懸念も高まり、訴訟件数も増加した。業界は議会に働きかけ、被害者への補償を負担することになれば業界そのものの存続が危うくなると主張した。

それは議会を威圧して免責措置を成立させるための誇張だったのか。それとも、ワクチンを通常の商品として扱い続ければ本当に起こり得た現実的な予測だったのか。

残念ながら、その答えを知る術はない。だが、そろそろ明らかにすべき時期に来ているようにも思われる。もし利益が賠償コストを上回る規模で製造・供給できないのであれば、それは重要な事実を示すことになる。こうした検証の結果として、どのワクチンが、どの程度まで通常の市場商品として扱いうるのかがはっきりするはずだ。

副作用のない医薬品は存在しない。重要なのは、その情報を十分に開示し、未開示の被害については厳格な責任を負うことである。今日、市場には賠償責任を負いながら流通している医薬品が数多く存在する。ワクチンだけが通常の法的基準から除外される理由はない。

近年、いわゆる反ワクチン思想の広がりに対して強い憤りが示されている。その大きな要因の一つが免責措置であり、これがかえって市民の不安を増幅させてきた面は否めない。ワクチンを強く支持する側と強く反対する側の双方にとっての現実的な妥協点は、ワクチンを市場経済の枠組みに位置づけ、リスクの受容に基づいて受け入れるか拒否するかを選択できる他の商品と同様の扱いにすることであろう。

もう一つの解決策としては、スカイダイビングやスキーなどの危険を伴う活動と同様、個別の免責同意に依拠する方法が考えられる。ワクチンに対する一定の需要は存在するはずであり、リスクを受け入れる意思のある人に訴訟権の放棄を求めることも可能だろう。本来、自由市場においてはそのように処理されるべき問題である。

少なくとも、こうした通常の状態に近づくためには、業界全体に保証されている現在の包括的な免責措置は廃止されなければならない。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
ブラウンストーン・インスティテュートの創設者。著書に「右翼の集団主義」(Right-Wing Collectivism: The Other Threat to Liberty)がある。