日本学術会議問題を考える

2020/10/20
更新: 2020/10/20

10月1日、日本学術会議会員の任命で、政府が105人の候補のうち6人を拒否したことが明らかになった。翌日の10月2日、朝日新聞は日本学術会議を「学者の国会」と表現し、政府による人事への介入を批判的に報じた。それに対して同日、私はツイッターで次のように発言した。

日本学術会議は「学者の国会」などでは全くない。我々学者は、学術会議のメンバーを選挙で選べない。お上が勝手に人選している。だから「学者の全人代」という方が正しいだろう。もし、我々が選挙で選んだ政治家が、その人選に一切口を挟めないなら、その方が非民主的。

ここで用いた「学者の全人代」という表現は、ネット上で多くの支持を受けたようである。その後、一色正春氏や竹田恒泰氏も同じ表現をツイートで用いた。みな思いつくことは同じようである。

日本学術会議が抱える問題点は、私が書くまでもなく、既に多くの識者が具体的に論じているので、ここで繰り返すことは控えよう。一言で言うと、学術会議は左翼イデオロギーに支配された極めて政治性の強い組織である。本来の学問が持つべき「価値中立」の精神は微塵も感じられない。それゆえ、少なくとも理工系の学者で学術会議に対して好意的な印象を持っている人間は稀である。

では、なぜその声がこれまで顕在化しなかったのか。その理由は、学者の多くが臆病な人間だからである。彼らは基本的に、自分の地位と研究環境が守られればいいと考えている。よって、左翼学者と揉めて、余計な時間をとられたり、不必要なリスクを負ったりしたくない。私自身はこれまでも左翼学者の政治活動を公然と批判してきた。しばしば、理工系学者から「陰ながら応援しています」という声はよく受けてきたが、それが限界だった。

菅内閣による任命拒否で、その流れは大きく変わった。マスコミによる必死の学術会議擁護にも関わらず、「一般国民」対「学者」の見方が定着しつつあり、学術会議側の旗色はかなり悪い。これまで発言を躊躇してきた学者の中からも、学術会議に対して表立った批判をする人が増えつつある。

学術会議問題に手を付けると、左翼学者やマスコミが猛反発することは十分予想できた。そこに手を付けた菅義偉首相の胆力には敬服する。並の政治家は弱い相手を叩いて改革をアピールする。一方、菅首相は学者利権、中国利権といった、怖くて誰も触らなかった本当に危ないところに切り込んでいる。高橋洋一氏の内閣官房参与への登用は、電波利権や財務省改革にすら切り込む勢いを感じさせる。返り討ちにあって短命に終わってもいい覚悟なのだろう。

保身が目的の政治家ならば、支持率が高いこのタイミングで選挙を打って、自らの権力基盤を盤石にしようとしただろう。しかし、菅首相はその道を選ばなかった。自分の政治生命を懸けて、国民のために危険な敵と戦いを挑んでいる。何も失うものがない政治家でなければできないことではないか。叩き上げで、かつ地盤を世襲させるつもりもない政治家の強みである。

菅首相の勇気がもたらしたこの騒動は、左翼イデオロギー色に染まった学術会議を改革する大きなチャンスである。巷では民営化や解体も論じられつつある。組織を存続させるならば、自然科学に対象を限定した組織にすることが必須であると私は考えている。

そもそも、日本学術会議は外国の科学アカデミーに相当する。その英語名もScience Council of Japanであって、直訳すれば日本科学評議会となる。海外主要国の科学アカデミーは、自然科学者だけからなる組織である。また、ほとんどの国で政府とは独立した民間組織である。日本学術会議も、この際世界の趨勢に合わせて自然科学者だけからなる民間の組織に衣替えしてはどうか。

日本では人文科学、社会科学、自然科学という学問の分類がなされているが、英語ではhumanities, social science, natural scienceと表記される。日本語に訳すとhumanitiesは人文学であって、人文科学(human science)ではない。だから、人文学者が科学アカデミーに入っていること自体がおかしいのである。もちろん、私は人文学や社会科学の存在意義を否定しているわけでは決してない。人文学や社会科学は別のアカデミーを作ればよい。実際、フランスでは科学アカデミーを含む複数のアカデミーが並立している。

科学アカデミーについては、日本では文系学者による支配という世界でも特異な状況が起きているが、実は大学の運営においては、日本は諸外国と違って成功している面がある。日本の成功をもたらしたのは、教養学部の廃止である。これにより、理系の教員や学生を文系学者のイデオロギー支配から守ることに成功した。

米国の大学は、4年間リベラル・アーツ(教養)教育が中心で、本格的な専門教育は大学院に入ってからである。このリベラル・アーツの部分を、ポリティカル・コレクトネス(以下、ポリコレ)を振りかざす左翼教授たちに支配されてしまったのである。北米の左翼教授たちの恐ろしさは、以前のコラム「日本人が知らない北米左翼の恐ろしさ」で紹介した通りである。

ポリコレの波は理系にも波及している。たとえば、2017年に生物学者のブレット・ワインシュタインは、有色人種だけがキャンパスに来られる日を作ることは逆差別だと主張した結果、レイシストと激しく糾弾された。大規模な抗議や脅迫を受け、最終的にエバーグリーン州立大学大学教授の職を追われる結果となった。私は今、自由に左翼批判をすることができるが、これは日本の大学にいるからである。米国の大学だったら、ただでは済まない可能性がある。

米国と同様のポリコレは、欧米の大学全体に広がりつつある。そのため、大学での自然科学の教育研究に障害が出つつある。一方、日本の大学は教養学部の廃止で、理系学部の独立性が強まっている。大学一年生から、理系学部はその学部の教授による教育が行われるので、理系学生はポリコレの影響をほとんど受けない。

最近、日本の大学では英語で行われる授業だけで単位を揃えて卒業できるプログラムが理系でも整備されつつある。私もそのプログラムの一つで講義を担当しているが、先日の講義(オンライン)で米国からの留学生になぜ日本の大学を選んだかを聞いたところ、米国の大学のポリコレを避けたかったのが主な理由だと答えた。

これは、日本にとっては大きなチャンスである。日本の大学の理系教育はポリコレに侵されていないことをアピールすれば、世界中から良識のある優秀な学生たちを「ポリコレ難民」として引き受けることができる。

現在、少子化の進行と大学数の過剰で、日本の大学は学生の確保に苦労しており、結果として中国人留学生に依存する体質になってしまっている。これは安全保障の観点から好ましいことではない。新型コロナウイルスのパンデミックで社会のリセットが起きている今、ポストコロナの時代に日本の大学がポリコレ難民を受け入れるという構想を検討するよい機会である。


執筆者:掛谷英紀

筑波大学システム情報系准教授。1993年東京大学理学部生物化学科卒業。1998年東京大学大学院工学系研究科先端学際工学専攻博士課程修了。博士(工学)。通信総合研究所(現・情報通信研究機構)研究員を経て、現職。専門はメディア工学。特定非営利活動法人言論責任保証協会代表理事。著書に『学問とは何か』(大学教育出版)、『学者のウソ』(ソフトバンク新書)、『「先見力」の授業』(かんき出版)、『知ってますか?理系研究の”常識”』(森北出版)など。

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