11月に入ってから、急に冷え込み始めました。日中の時間も次第に短くなってきました。ソ連軍がしょっちゅう家に押し入ってきて、女性を連れて行くという噂を耳にしました。ある人などは、ソ連軍に連れて行かれないように顔を黒く塗り、男か女か分らなくしました。
2008/04/06
生まれたばかりの弟の死 すでに十月に入り、次第に冷え込んできました。団長はすでに段取りを済ませ、開拓団全員をひきつれて沙蘭鎮の王家村に帰り、そこで冬越えをしようとしていました。これは、私たちにとって三回目の逃避でした。今回の移動は主には寒さと餓えをしのぐためのもので、相変わらず死の危険が私たちに付きまとっていました。
2008/03/31
伝染病の流行 しかし、この時期、全ての人にとって、さらに恐ろしい災難が降りかかろうとしていました。この頃になると、人々はすでに明らかな栄養失調になり、体力は衰弱しきっていました。加えて、着替えの服がなかったので、衣服にシラミが発生しました。そんなとき、恐ろしい伝染病が流行し始めたのです。
2008/03/27
しかし、新たな嵐が密かに私たち家族に忍び寄り、私たちのすべてを奪い、家族の運命を決めたのです。
2008/03/21
その日の夜、馬蓮河屯に着きました。そこはとても大きな村で、西には牡丹江から図們(トゥーメン)に行く直通汽車が走っており、南には大きな河・馬蓮河があり、鉄道の東側、村落の外にはまた小さな川があり、村の人々は皆その川で洗濯し、子供たちはそこで水遊びをして遊んでいました。
2008/03/15
日が沈み、周りは暗くなり始めましたが、前方にはまだ何の建物も見えず、至るところ林でした。大隊を率いる人が、今晩早いうちに目的地にたどり着くために、道を急ぐよう、皆を励ました。
2008/02/27
私は左右の手で一人ずつ弟の手を引き、3人で横になって山を一気に下りて行きました。そこにはすでに何人か大隊の人が私たちを待っていました。後ろを振り返ってみると、隊列は今朝ほどにはかたまっておらず、人がバラバラと下りて来ており、まだ山の上まで来ていない人もいるようでした。
2008/02/24
そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。
2008/02/16
【大紀元日本2月14日】神韻芸術祭アジア太平洋地区巡回公演のトップを飾った東京公演は、昨年の埼玉・大宮公演に続いて2回目。昨年の感動を忘れられない観衆の多くは、東京・新宿の会場に足を運んだ。また、昨
2008/02/14
苦難の逃避行 父たちが行った後、学校では授業がなくなり、子供たちは外へ出ないようにと言われました。開拓団本部の若い男の人たちはみな前線に送り込まれ、残ったのは、団長と年配の男の人たち、それに女・子供だけでした。
2008/02/10
私たち一家6人の開拓団での生活は、とても簡素で非常に短いものでしたが、私の生涯において非常に特別な意味を持っていました。
2008/02/04
開拓団にきてから、自分がだいぶ成長し、多くの事を知るようになったと感じました。そして、両親がとても大変で辛抱していることも理解でき、心から母の手伝いをしたいと思い始めました。
2008/02/01
私は次第にそこの生活に慣れました。入学して間もないある日のお昼、食事(昼ごはんは学校が先生と生徒のためにまとめて作ってくれる)が終わってグランドで縄跳び遊びをしていると、突然深緑色のトラックがやってきました。軍人のような若い人が何人か降りてきて、車から荷物を下ろし、総務室に運び始めました。多くの先生方も手伝っていました。
2008/01/29
それからしばらく経って学校が始まり、私は毎日小道を通って山の麓にある学校に通うようになりました。
2008/01/26
大人の人にとって「何とかして生きていく」ということが何を意味しているのか、8歳の私には分かりませんでしたが、私たちが中国の辺鄙な田舎に来ていることは確かでした。そして、「何とかして生きていく」という父の慰めのことばが、その後自分が一人で向き合わなければならない運命になるとは思いもしませんでした。
2008/01/24
第二章 裏切られた期待と開拓団での生活
私たちがバスから降りたとき、目に飛び込んできたのは、一面の荒れ果てた山と野原でした。3月の黒龍江省はまだとても寒く、地面もまだ凍っていました。大地は一面枯れた雑草に覆われ、山にも緑は全くなく、麓に新築のレンガの平屋が幾棟か並んでいるだけでした。
2008/01/21
私たちは、羅津市を離れてからは、暴風雨に遭うこともなく、好天に恵まれ、さらに2日間船旅が続きました。
2008/01/18
私たちが父と一緒に船に戻ったとき、母はもう弟の力を寝かしつけ、みんなの布団を敷いてくれていました。しかし、私はもう全く眠くありませんでした。おそらく、ここ数日間、荒波の船上で
2008/01/16
私たちが中国へ旅立つ前、父は祖母の家へ行って、中国行きについて相談しました。祖母は、父が家族全員を連れて行くことに反対でした。父は祖母にとって一人息子で、その上祖父が早くに亡くなったため、祖母は随分苦労しながら一人で父を育てました。それなのに、今父は日本を遠く離れ、見知らぬ国へ行こうとしています。祖母はどうして安心できるでしょうか?
2008/01/14
この時、乗客の皆は船を降りて上陸する準備をしていましたが、母は私が見当たらないのに気が付くと、あわてて至る所を探しました。母が呼んでいるのを聞きつけて、私はすぐさまそっちのほうを見ました。すると、母は一番年下の三番目の弟「力」を背負い、父は左手に一番上の弟「一」を、右手に二番目の弟「輝」を引いていました。
2008/01/14
この結末を聞いて、私はとてもほっとしました。母は私に、「みんなが互いに助け合い、励まし合えば、どんな困難をも克服できる勇気と自信が生まれる。そうすれば、きっといい方法が見つかり、生きていけるはずだ」と教えてくれました。
2008/01/09
第一章 中国への旅立ちと期待 1944年3月、8歳のとき、私は両親と一緒に新潟港を出発し、日本海を西へ向かって中国へ旅立ちました。それが自分の運命に、そして一家の運命にとって何を意味しているのかは、天真爛漫で好奇心旺盛な私には、まったくわかりませんでした。
2008/01/05
はじめに: もし私が依然、普通の人と同じ考え方であったなら、八歳のときに家族と生き別れ、死に別れて以来、数十年にわたって心の中に鬱積しつづけた傷を解きほぐすことはできなかったでしょう。
2008/01/03
催眠回帰の方法が、学者たちの間で正式に輪廻研究に広範に用いられるようになったのは、1967年にデニス・ケルシー(DENYS KELSEY)とジョアン・グラント(JOANN G
2007/06/22
前出の英国のマッコリー君や中国の唐江山君の例だけでなく、類似した事例は世界各地にあり、輪廻転生の考え方は、特定の民族や宗教に限ったものではないといえる。
2007/06/17
輪廻と言えば、おそらく多くの人が、仏教の中の六道輪廻の説を連想するだろう。人の本当の生命である魂は、天上、地上、地下という3つの異なる空間の異なる物質と生命の間で転生するというものだ。
2007/06/15
中国では、全ての人が輪廻を信じているわけではないが、「縁」は、ほとんど誰もが信じている。縁とは、無数の目に見えない鎖のようなもので、自分に関係する人たちを生命の中につなぎ合わせる。その中に、親類や友人もいれば敵もいる。
2007/06/12