中南海の暗闘:中共党中央の故・薄一波氏に対する「死後評価」

2007/01/25
更新: 2007/01/25

【大紀元日本1月25日】強硬派で知られる中共の古参幹部、薄一波(享年99)氏が15日、北京市内の病院で亡くなった。大陸メディアは、党中央の薄氏に対する「死後評価」をこぞって掲載、「薄一波氏は、中国共産党の優秀党員にして、偉大な共産主義戦士、傑出した無産階級の革命家にして、経済プロジェクトの卓越した指導者だ」としているが、これら評価の背後には何かがありそうだ。アジア時報の方徳豪記者が記した。

薄一波氏は、1949年以前は、軍で傑出した役割を演じた。薄一波氏は、1928年当時、中共北方局軍委秘書長を任務し、1939年には八路軍第129師序列決死第一縦隊司令員兼政委、1941年8月には太岳縦隊兼太岳軍区政委、1945年の抗日戦争勝利後、中共晉北冀魯豫軍区副政委に就任、1948年以降は、中共華北軍区政委、平津衛戌区政委、綏遠軍区政委を兼任していた。しかし、党中央の薄一波氏に対する評価は、軍での功績によるものではなかった。

2002年5月に逝去した中共元老、薄一波氏と同様に副総理級であった故・習仲勲氏は、1949年後は、広東省・省長及び広州軍区第一政委を兼任した以外、基本的にはその他の軍務には就いていなかった。しかしながら、中共中央の習氏に対する評価は、「我党、我軍の卓越した政治手腕をもった指導者」また特別な讃辞として「陵甘辺区革命の中核として、主要な創建者かつ指導者の一人」であった。

中共中央が、薄一波氏の軍功に言及しなかったのは、外部には知る由もないが、しかし中共内外の論を待つまでもなく、薄一波氏は、1931年から1936年まで、軍閥によって閻錫山に軟禁収容された際に、何らかの経緯によって釈放され物議を醸し出した人物だ。中共内外の一つの見方として、薄一波氏がその当時「中共に謀反を起こした事情」を認めて、出獄したというのがその認識だ。

こういった指摘に、薄一波氏自身はすこぶる不満であったようだ。簿氏は、特別に「人民日報」のインタビューに応じ、当時の内容について語っている。記事は、2005年8月23日の「人民日報」第四版に掲載された。指摘によると、中共中央駐北方局代表・劉少奇氏は、「北方局の幹部に決定的に欠けている視点とは…」「北平草嵐子監獄の中に全く真剣に考慮しなくてはならぬ同志50人がいて、救出しなくてはならない」、こうして薄一波氏は出獄することができた。

出獄後に、薄一波氏は、閻錫山で共に辛酸を舐めた仲間と結託し、外部の注目を集めた。薄一波氏の理解によると、閻錫山に送られた理由には、二つあるという。一つには、大革命時期に山西で学生運動に従事し「影響力が比較的に大きかった」、革命失敗後に「閻錫山送りの容疑者」33人の一人に選ばれた。二つには、閻錫山地区の重要人物2人、趙載文、趙丕文は、薄一波氏が国民師範学校で就学中の校長であって、別に書簡を交わしていた盟友は、同窓生であったために、これら関係者が簿氏を「送致処分」にした。1967年3月、中共中央は、「薄一波、劉蘭涛、安子文、楊ケン珍ら、自主謀反問題に関する初回調査」を発表、1936年に北平草嵐子監獄で薄一波氏らの出獄手続きに「署名」がなされた事実を「61人叛徒集団案(謀反人61人事案)」として認めた。文化大革命時期、薄一波氏は、少なからず苦労した。

文革後、薄一波氏は自らの名誉回復に東奔西走した。後に、彼が打撃を加えることになる相手は、誰あろうか「胡燿邦」その人であった。胡燿邦の愛娘・満妹が著わした「回憶父親胡燿邦(わが父、胡燿邦の回顧録)」の278-279頁によると、1977年前後、胡燿邦氏が中組部長時期、「61人叛徒集団案」を大々的に見直す「名誉回復」の作業に着手した。当時、胡燿邦氏は、薄一波氏の請求に「耳を傾けるのが専決」と、秘書を派遣して訴えを聞き、その後、胡燿邦氏は談話記録を確認し、批評文を発表した。

胡燿邦氏は、薄一波氏の名誉回復をしようと、_deng_小平に連絡したが、逆に問い詰められ「え!?まだ、そのような事を蒸し返したいのか?」…数日後、華国鋒主席にも電話したが、「打ち切り!」、結局、胡燿邦氏はやぶ蛇な結果に逆に巨大な政治的圧力を受けることとなった。

1985年8月22日、_deng_小平・当時総書記は、北戴河での大寿(81歳)の誕生披露宴で、「二年後の中共第十三大で退役する」と話した。胡燿邦氏は、これを「真に受け」、香港メディアとのインタビューで大陸消息としてこれを漏洩してしまい、政治的逆風を受けることになった。

「わが父、胡燿邦の回顧録」では、1987年1月16日に、_deng_小平が主催した中共中央政治局拡大会議で、中央顧問委員会副主任・薄一波氏が会議上、「党中央の幹部は非常にブルジョアな生活に安逸している」と報告した。会議では、胡燿邦氏に対する「厳粛な批判」が進行し、声明として、胡燿邦氏を党中央総書記から更迭する請求が決議された。

1989年の胡燿邦氏の追悼大会では、薄一波氏の姿は見られなかった。胡燿邦氏の遺族達が、「忘恩負義(恩知らず)」の薄一波氏の参加を許さなかったからだ。

中共中央の胡燿邦氏に対する評価は、薄一波氏よりも若干高いようだ。中共中央の胡燿邦氏に対する結論は、「胡燿邦同志は、長い経験を有する忠誠心に溢れた共産主義戦士であり、偉大な無産階級革命家にして、政治家、我軍の傑出した政治将校、長期的には、党の高層幹部として手腕を振るった」。薄一波氏に、胡燿邦氏のように「長い経験を有する…」という一句が入っているかどうか…・いずれにせよ、中共崩壊の暁には、これらの評価一切が「大平反」され、歴史家と一般大衆とが、正当な評価を下してくれるだろう。