1989年の天安門事件で国際社会から批判と制裁を受け、孤立した中国にいち早く手を差し伸べたのは日本だった。その後、中国共産党 党首 江沢民の来日へとつながった。冷戦後のアジア秩序が揺れる中、日本は中国の改革開放路線を支え、円借款を通じて都市インフラや産業基盤の整備を後押しし、日中関係は穏便だった。
中国がWTOへ加盟し、急速に世界経済の中心へと浮上した2001年以降の歴代政権の歩みを見ると、対中姿勢の明確さが政権の安定と一定の関係を持ってきた様子も浮かぶ。小泉政権や第二次安倍政権のように対中警戒を鮮明にした政権は長期化している。一方で、融和を掲げていた小泉首相後、安倍、福田、麻生と続いた自民党政権から民主党政権は短命に終わっている。
今回は中国のWTO加盟から現在まで、日本の各政権での対中政策や対中姿勢、社会の出来事などを振り返ってみたい。
2001年頃、日本国内ではバブル崩壊後の長期停滞が続き、日中の経済規模は大きく接近した。当時発足した小泉純一郎政権では、靖国神社参拝が続き、中国側の反発が強まった。2005年には中国各地で反日デモが発生し、日本国内でも対中感情が悪化するなど、政治関係は戦後屈指の冷却状態に陥った。
一方で経済交流は活発で、日本企業は競うように中国市場へ投資し、生産拠点の移転が進んだ。「政冷経熱」という矛盾した構図が定着し、国民感情の揺れは日中関係の基調を形づくる要素となった。
2006年に発足した安倍晋三氏は対中姿勢は強硬であったが、関係改善の突破口を開くことを新政権の最優先課題とし就任直後に訪中することで、その強い意思を内外に示した。
胡錦濤国家主席との間で、「戦略的な共通利益に基づく互恵関係(戦略的互恵関係)」の構築に合意し、これを今後の日中関係の基本とするという認識を確認。その後の日本の対中政策の基礎となった。
健康問題により約1年に終わった第1次安倍政権に続いて発足した福田康夫政権では、前政権の路線を踏襲し、2008年5月には日中共同声明が発表され「戦略的互恵関係」を包括的に推進し、「歴史を直視し未来を志向」することを確認、東シナ海を「平和・協力・友好の海」とすることで合意した。
続く麻生政権の対中政策は、「戦略的互恵関係」を基盤とし、経済協力や人的交流を継続・発展させる現実的な路線を維持しつつ、「価値観外交」という、民主主義、自由、人権、法の支配といった普遍的価値を外交で大いに重視する姿勢の中に中国との関係を位置づけようとし、政治的安定と経済協力を両立させる関係性を模索した。
中国国内でも日本文化やアニメ人気が広がり、市民レベルの往来が増えたことで、政治緊張の緩和に一定の効果をもたらしたが、3年で3政権が交代するなど政治混乱の時代が続いていた。続く2009年から3年間続いた民主党政権においても混乱は収まらなかった。
鳩山由紀夫政権は、「東アジア共同体」構想を掲げ、中国を含むアジア諸国との連携深化を目指す融和的な態度をとった。同時に日米関係をより「対等なもの」に見直す姿勢を示した。中国から見れば、日本が米国一辺倒の外交から脱却し、融和的なシグナルと受け取られる側面があった。民主党政権時代、中国の経済は急成長を遂げ、2010年にはGDPが日本を超え世界第2位の位置に躍り出た。
その後、沖縄普天間基地での迷走などの問題で鳩山首相が退任し、次の菅直人政権では、鳩山政権が打ち出した「東アジア共同体構想」などの路線から現実的な外交へと修正を図り、対中関係においては、安倍・福田両政権で合意された「戦略的互恵関係」の枠組みを維持しようとした。
しかし尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に意図的に衝突する事件が発生し、状況が一変した。日本政府が中国の強い圧力に対し、船長を釈放するという対応をとり、国内で「弱腰外交」と批判された。同時に日本国民の対中感情を決定的に傷つけ、日本人の中国に対する感情は、この2010年の尖閣事件以降、悪化している。
尖閣での緊張が続く中、2012年に発足した第二次安倍政権は、集団的自衛権の限定容認や安保関連法の成立など、安全保障政策の強化に舵を切った。中国の海洋進出が顕著になる中、日本側は防衛力の底上げと、日米同盟の運用強化によって抑止力を確保しようとした。
一方で2014年には主権および領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵を謳った 「4項目合意」によって危機管理の枠組みが整い、緊張を抑えながら関係を安定させる局面も生まれた。2010年代半ばには中国人観光客が急増し、「爆買い」が社会現象となるなど、民間レベルでは交流が再拡大した。政治的対立と人の往来が同時に進行するという、日中関係特有の矛盾も再び表れた。
しかし安倍政権後期になると「自由で開かれたインド太平洋」構想が打ち出され、中国の台頭に対する戦略的な視点が強まった。習近平の国賓来日が検討されるなど関係改善の余地も見えていたが、新型コロナウイルスの感染拡大で計画は立ち消えとなった。
2020年の菅義偉政権では半導体や重要物資の供給網を見直す「経済安全保障」が中心課題となり、コロナ禍で途絶した人的往来は国民感情のさらなる揺れをもたらした。中国依存への不安は一般消費者の間にも広がった。
岸田文雄政権では経済安保推進法の成立で制度的な枠組みを整え、岸田政権は、安倍政権の路線を深化させた。2022年12月には安保関連3文書を改定し、日本に対する武力攻撃が発生し、他に手段がない場合に、相手の領域にあるミサイル発射拠点などを破壊する能力「反撃能力」の保有を正式決定、さらに防衛費をGDP比2%へ増額する方針を打ち出し、戦後防衛政策を大転換させた。また、非軍事面では経済安全保障推進法を制定し、サプライチェーン強靱化などを進めた。
こうした環境の中で発足した石破茂政権は、米中対立が構造化する国際情勢を前提に、「現実的抑止」と「管理型の経済安保」を軸に据えた。自衛隊の警戒監視能力を強化し、南西諸島の防衛態勢を見直すなど、軍事面の抑止力を高めつつ、半導体や通信インフラなど戦略物資の供給網再編も進めた。中国との完全デカップリングは避けながらも、対話の窓口を維持する外交が中心となった。
10月に発足した高市早苗政権では、日米同盟を基軸に「自立する国家」の実現を目指し、外交力、防衛力、情報力など「総合的な国力」の徹底強化を掲げている。また主要な政策として、防衛費の対GDP比2%水準への今年度中の前倒し実行を経済対策に明記し、安保戦略3文書の前倒し改定を目指す。加えて連立合意には、殺傷兵器の輸出拡大を視野に入れた防衛装備移転三原則の5類型撤廃が盛り込まれた。
その政策は口先だけではなく、国会の答弁で高市首相は、台湾有事で戦艦を用いた武力行使があれば、集団的自衛権行使の要件である「存立危機事態」に該当し得るとの見解を明確に示し、野党や中国共産党政府からの発言の撤回要求を拒否している。
天安門事件後、孤立した中国を支える側だった日本と、国際社会で巨大な存在感を持つまでに成長した中国。その間に積み重なった構造的なズレは、尖閣、経済摩擦、国民感情の揺れなど、さまざまな形で両国関係に影を落とし続けている。
大紀元の社説「共産党についての九つの論評【第二評】中国共産党はどのようにでき上がったか」には次のように記述している。
「歴史的教訓として、共産党の承諾は信じてはならない、いかなる保証も実現しない。共産党を信じたら、命の保証はないのだ」

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