アメリカ政治 「自由の女神はアメリカで最も美しい情景だ」

アメリカの自由主義の黄昏 カール・シュミットの「友敵」論が現実化 

2024/06/14
更新: 2024/06/14

社会の正常な運営を特徴づける言葉を1つ選択するとしたら、それは協力か対立か? その選択は、歴史と未来にとって極めて重要であることが分かった。一部のイデオロギーでは、社会全体が常に沸き起こっているような対立を扇動することで、秩序が維持されるべきと考えている。

一方で、こうした対立は有害なシステムやイデオロギーの結果として作り出された不必要なものだと考える人々もいる。

戦間期の名作からちょっと考えてみよう。

ドイツの法学者で、政治理論家のカール・シュミットの著作『政治的なものの概念』を最初に読むと、自身が住む国を自由だと考えている読者は衝撃を受けるはずだ。シュミットの論考では、すべての国家や政府、法律は、友/敵の区別を煽ることで、権力の正当性を維持している。人々を互いに敵対させ、より激しく対立させることによってのみ、政権は権力を維持することができると彼は考えている。

シュミットを思想家として尊敬するのは構わないが、彼の知的テンプレートがナチ党に不可欠なテンプレートを提供したことを覚えておいてください。ヘーゲルにルーツを持つ右翼マルクス主義とでも呼ぶべきものだった。要するに、これは古典的なリベラルでも、ましてや民主主義的な世界の見方でもない。

シュミットの思想によれば、人権の擁護はナンセンスで、民主主義という概念はデタラメということになる。彼の思想は18〜19世紀初頭にかけて我々が一時的に抱いていた妄想である。シュミットは権力の信奉者であり、権力を獲得し維持する方法を支配階級に指南するマキャベリの後継者であったが、彼の見解はより極端で生々しいものであった。

彼の見解は、おそらく私たちが陥った世界、つまり選挙で投票した候補者と対立する人物が当選した場合、国民の半分が狂乱状態に陥る世界を説明する理論として、今日でも人気だ。それは我々が向かっている方向だと思う。シュミット主義のこの堕落から立ち直ることはできないというのが、大きな懸念だ。

ドイツの法学者で政治理論家のカール・シュミット(パブリックドメイン)

先週、友人たちと今年11月に控える米大統領選挙後の状況について議論していたときに、上記のような状態が訪れることに気づいたのだ。選挙結果次第では誰もが戦闘モードに入るかもしれない。これこそ、憲法の制定者が最も恐れた悪夢である。

「アメリカ合衆国憲法の父」であるジェームズ・マディソンらが執筆した『ザ・フェデラリスト』第10篇によると、党派にとっての自由とは、炎にとっての空気のようなものであ り、それがなければ死滅する栄養物のようなものである。しかし、政治生活にとって不可欠な自由を、党派を助長するからといって廃止するのは、動物の生命に 不可欠な空気を、それが火に破壊的な力を与えるからといって、消滅させたいと思うことに劣らぬほど、愚かなことだろう。

要するに、権威主義は派閥主義に対する瓦解策にはならないということだ。対立と分裂という潰瘍を治療する唯一の方法は、自由そのものである。それこそが、人類の歴史の中で最も大きな変革期を形作った夢であり、哲学的展望であった。紛争の解決策としての自由の高揚は、思想史上最大の発見である。

米ニューヨークを訪れたことがありながら、自由の女神像(正式名称:世界を照らす自由)の周りを船で回ったことがない人の多さには驚かされる。自由の女神は今日でも、米国で最も驚異的で感動的な光景であり続けている。遠くから見ると思ったより小さく見え、近くで見るとそのスケールの大きさに驚く。足元から炎の先まで、サッカー場1面分程度の長さがある。

観ていてまったく嬉しくないわけがない。自由の女神は単なる素晴らしい芸術作品ではないのだ。彼女は、歴史上の人物でも、作家でも、知識人でもなく、誇り高き理想の象徴である。それは、すべての人が、人間経験のまさに核心であるべきで、そしてそうでなければならないのだ。

また、自由を重んじる社会は、上からの中央集権的な管理なしに、社会が独自の形をとることを可能にするということを示唆している。

自由主義は、この頃、一時的に西洋の正統派のようなものに昇華した。南北戦争の終結から21年後、米西戦争の前のことである。アメリカと西欧の歴史においてベル・エポックと呼ばれたこの時代は、驚異的な技術発展を遂げ、都市は空高く舞い上がり、通信と飛行が視野に入り、食糧と医療へのアクセスもさらに向上した。

フランスは、素晴らしい楽観主義、平和、豊かさの時代に共有された理想へのオマージュ(敬意)として、自由の女神を米国に贈った。当時、米国は人間の自由を実践する模範と見なされ、特に米国が奴隷制という原罪を最終的に処理したことを考えれば、なおさらであった。米国は世界の光となるべく完璧な態勢を整えており、女神像はその思考と理想を見事に象徴していた。

この像は今日、我々に自戒の念を想起させる。ボートの上から見つめていると、心が高揚してきた。しかし、私は子供の頃に観た映画『猿の惑星』のチャールトン・ヘストンが泥に埋もれた自由の女神を発見するシーンを思い出した。映画史に残る名シーンだ。

我々はまだそこに到達していない。しかし、我々の軌道は今や非常に危険なものとなっている。端的に言えば、国民の半数が結果を拒否反応を示す投票を通じて表明される被統治者の同意に対して根本的に依存する政治形態を運営し続ける方法はないのだ。

確かに、勝者がすべてを手にする選挙には失望する人もいる。とはいえ、過去のエートス(習慣・特性)は、今こそ活動的になり、教育し、鼓舞し、大義のために動員し、次に勝つことができるように動くべきだと示唆していた。そして、250年もの間、そうしてきた。今もそうだろうか? とはいえ、連邦政府各機関が採用している疑わしい慣行や、情報流通に対する積極的な検閲、政敵に対する法戦の行使を見れば、そうとも言い切れないようだ。

これはシュミット的狂気への転落を表している。我々が出口を見つけない限り、それは我々を瀬戸際まで連れて行くだろう。友敵の区別は、人生そのものの願望ではない。自由の女神が掲げる松明は、確かにより良い道を照らしている。我々は皆、この松明を見つめ、理想に鼓舞され、その光が導くところに従おう。

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。

ブラウンストーン・インスティテュートの創設者。著書に「右翼の集団主義」(Right-Wing Collectivism: The Other Threat to Liberty)がある。