【寄稿】スパイの道具となった「ドンバスの少女」 米軍機密漏洩の恐るべき影響とは

2023/05/03
更新: 2023/12/02

最高レベルのサイバーセキュリティを誇る米軍機密文書が漏洩するとは誰が予測し得たのだろうか。Z世代の若者による気軽な投稿が安全保障政策に深刻な影響を与えたことは、インターネット社会における秘密保持の難しさを如実に表している。

情報戦の観点から言えば、スパイとなる意思が本人になくても、スパイ行為に加担したことに変わりはない。SNSを利用した巧みなスパイ事件を、軍事ジャーナリストの鍛冶俊樹氏が解説する。

ポイント!

・なぜ空軍1等兵が機密にアクセスできたのか
・黒幕の「ドンバスの少女」
・漏洩は国際政治にも影響か

事件の動機と背景

日本のサイバーセキュリティの脆弱であることを指摘し、「日米関係の最大のネック」とまで言い切った米国で機密情報流出事件が起きた。FBIは4月13日、ジャック・テシュイラ(21歳、男)を逮捕した。

彼はマサチューセッツ州の州軍所属の軍人で階級は1等空兵と報道されているが、この翻訳は適切ではない。Airman first classを1等空兵と直訳したのだろうが、正確には空軍上等兵と訳すべきだ。なぜなら空軍上等兵の一つ下が空軍1等兵すなわち1等空兵になるからで、1等空兵では階級が一つ下がってしまう。

ちなみにAirman first classは航空自衛隊でいえば空士長に該当する。1等空兵では空自の1等空士と同等であることになるが、空士長は1等空士より一つ上の階級だ。

細かい事のようだが、実は、この階級の認識不足が事件の本質を見誤らせているのだ。日本では1等空兵などという低い階級の兵隊が、どうして機密にアクセスできたのか疑問の声が上がっていた。

たしかに1等兵は軍において事実上、最下級の階級と言っていい。この下に2等兵という階級があるが、これは見習い期間の階級であって、見習い期間が終了すると1等兵に昇進し、かくて1人前の兵隊となる。

上等兵はこの1等兵を指導する立場にあり、すなわちテシュイラ被告は州軍において1等兵を指導する立場にあったのである。このことは被告の動機を探る上で極めて重要な点だ。彼はサイバーセキュリティの担当であり、その立場上、サーバーに保管されている機密文書にアクセスできる権限を有していた。

つまりサイバー戦争の最前線におり、1等兵を指導する立場にあったのだ。機密文書の内容を理解する能力があり、指導的な立場を誇示する意図でSNSの小さなチャットグループに機密文書を投稿したのだ。結果的に、これが拡散してしまったわけだが、彼自身に拡散の意図はなかったと見ていいではないか。

もちろん、機密は流出してしまったわけで、米国の安全保障に衝撃を与えた。重大な犯罪行為であり、厳粛に裁かれるべきだが、ここで指摘したいのは、階級を一つ間違えるだけで犯行の動機が分からなくなってしまう点である。

ちなみに彼の階級を下士官と報じていたメディアもあったが、これはEnlisted Manの誤訳であろう。軍の階級は14かそれ以上あるが、大まかに将校(士官)、下士官、兵卒に3分される。Enlisted Manは下士官および兵卒を指す。上等兵は兵卒の最上位であり、下士官の下だ。

下士官は中堅であり堅実な職務遂行を要求される。彼が下士官だったら、こんな軽率な行動は控えただろう。今回の事件は彼が上等兵であったことが重要なポイントなのである。

ドンバスの少女

この事件はSNSが舞台となっており、テシュイラ被告がSNS世代であったことも見逃せないポイントだ。私はSNSの初期の頃、自分の個人情報はもちろん職場の内情まで、何のためらいもなくSNS上にUPする若者たちを見て、危惧を感じたものだ。初期のSNSは閉鎖的な情報空間とされていたから、仲間内での情報共有ということで、安心して投稿していたようだが、サイバー空間とは、もともとセキュリティの確保が難しいのだ。

だからこそサイバーセキュリティが重要な課題となっているわけだが、そのサイバーセキュリティの担当が、禁を犯してしまったのは情報化社会の陥穽に嵌まってしまったと言えよう。

彼は過失を犯したのであり、スパイではなかった。厳罰に処せという声はあるが、それも過失の再犯を防ぐための一罰百戒の措置である。

だが、この事件には確信犯のスパイがいたと見られている。それが元米海軍下士官のサラ・ビルス(37歳、女性)である。テシュイラ被告は、SNSに投稿して罪に問われているが、彼自身に、これを拡散する意図はなかった。ところが、これを他のSNSに拡散させたと疑われているのがサラ・ビルスなのだ。

彼女は機密を直接漏らしたわけではないから、罪に問うのは難しいのだが、彼女の経歴を見ると、彼女こそ確信犯のスパイではないかと思えてくる。彼女自身はウクライナのドンバス地方出身のロシア系であり、あるSNS上の親ロシア派アカウント「ドンバスの少女」の運営に携わっていた。

いうまでもなくドンバス地方はロシア系住民が多く住む地域であり、ロシア軍はここを全面占領すべく、ウクライナ軍と激しい戦いを繰り広げている。日本では、ウクライナ系住民の声ばかり報道されるから、ウクライナ国民は全員、ロシアに抵抗しているかのように思われがちだが、実の所、ドンバス地方のロシア系ウクライナ人の多くはロシアによる統治を望んでいる。

機密漏洩は、テシュイラ被告が、自身が参加するSNSに投稿した段階では、拡散しなかったが、ドンバスの少女に再投稿されて、拡散し、米国防総省がようやく流出に気が付いた。その初期の再投稿はウクライナ情勢に関するものであり、ロシア軍が知りたがっていた情報であった。

彼女は「再投稿していない」と言っているが、ドンバスの少女の中で誰かが再投稿したのは事実である。しかし再投稿しているだけで、ロシアに直接送信しているわけではないから、罪に問うのは難しい。これはSNSを巧みに利用したスパイ事件なのだ。

米安保政策にとって致命傷か?

ドンバスの少女がロシア側に立っているのは明らかで、そこから拡散した情報で最も重大なものは、ウクライナ軍の編成、装備、訓練の状況に関するものである。これは、米国がウクライナ軍の通信を傍受して得た情報であり、米国がウクライナに対して不信の念を抱いているのが明らかになった。

しかもこれらの情報を分析すれば、ウクライナの対露反撃作戦の全貌が明らかになる訳で、ロシアからすれば喉から手が出るほど欲しい情報が転がり込んできたのである。具体的に言えば、ウクライナは大規模な反撃作戦を展開する計画だが、その主要な目標は南部のメリトポリの奪還であることが分かるのである。そしてメリトポリを奪還した後、停戦交渉に入ると言う道筋も透けて見える。

これが分かれば、ロシア軍はメリトポリの防御に一層力を入れるから、この作戦の成功は覚束なくなったと言えよう。

またイスラエルに関する機密も流出した。イスラエルが米国に対してイランへの共同作戦を要請したという。米国とイスラエルの関係が悪化しつつある現状で、この機密の流出は、いよいよ両国の関係を悪化させるだろう。またイランとの交渉を模索している米国にとって、足かせにもなる。つまり米国の中東政策を破綻させかねないのである。

さらに韓国の政府高官の会話を米国が通信傍受していたことも明らかになった。これが4月26日の米韓首脳会談に微妙な影響を与えたと見られる。

流出した機密の中には台湾軍に関するものもある。台湾が中国のミサイル攻撃に対して脆弱であること。台湾軍の航空機の稼働率が5割超に留まること。台湾軍のすべての航空機をシェルターに入れるには1週間以上かかること。などなど、これらの情報はいずれも台湾軍にとって致命傷になりかねない貴重な情報である。

この機密流出事件は米国の外交・安保政策を根幹から揺るがしたのである。

(以上)

この記事で述べられている見解は著者の意見であり、必ずしも大紀元の見解を反映するものではありません。
軍事ジャーナリスト。大学卒業後、航空自衛隊に幹部候補生として入隊、11年にわたり情報通信関係の将校として勤務。著作に「領土の常識」(角川新書)、「2023年 台湾封鎖」(宝島社、共著)など。 「鍛冶俊樹の公式ブログ(https://ameblo.jp/karasu0429/)」で情報発信も行う。