<中国人が看る中国>中国には中産階級は存在しない

2010/10/14
更新: 2010/10/14

【大紀元日本10月14日】世界を買いまくる中国観光客の消費力。それを活かして自国経済を救おうと望む各国の政策決定層。中国の目覚しい経済発展で8億人が中産階級になっていると言われている。この強大な中産階級の影響力によって中国のマナーが徐々に民主国家に近づくことを世界は期待する。

一方、中国国内の人々は、自分たちの生活を別の目で見ている。8億人もいる中産階級の定義は、中国政府がアジア銀行のデータを引用して1日あたり平均2ドル(約14中国人民元)から20ドルの間の消費力を持つ人としているようだ。だが、2ドルでは中国で1日3食も保障できない。この基準に、多くの中国人ネット利用者は自分たちが「中産階級にされた」と揶揄する。河北省在住の人気ブログ作家、馬慶雲さんが最近書いたある記事は、中国が中産階級を生み出すまでの道のりがまだ遠いことを伝えている。中にいるからこそバブルの幻を看破できるのかもしれない。

次は彼のブログ記事の抄訳。

私は今朝、中国政府の関連部門が発行した報告に目を通した。それによれば中国で1日あたり13.5元(約2ドル)以上を消費する者は全て中産階級だという。13.5元というのは河北省の首都の石家庄市で何を意味するのだろうか。省の博物館周辺で売っているごく普通の弁当や停車場近辺で買える栗一袋といったところだろう。では石家庄市民の本当の消費水準はいくらか、そして、最低生活を営むための1日当たり消費額はいったいどのぐらいなのか。

私の今日1日の消費額をざっと計算してみた。朝早く起きてバスに乗って会社へ往復で各1元、昼食8元、夕食のおかずに10元、これで20元、これは本当の最低限度で、くだものも買えない。おかずも安いものにし、卵や肉は買えず、タバコや酒などの嗜好品も駄目。自家用車通勤などもってのほか。これでも中産なのか。政府の言うこの報告には、明らかに問題がある。13.5元では根本的に人の日常におけるもっとも基本的な生活費を賄えない。それなのに中産と強弁するのか。

当然、これについて、政府にも考えがある。中産階級が大量に存在する社会が平穏な社会であり、大きな社会問題はない。政府はこの理論をもとに、民衆を纏めて中産としているのだ。13.5元の消費力を中産階級にしているのは政府の願望であり、本当の中産階級ではない。我々の生活を通してみれば、石家庄という中規模の都市で、1日あたりの一人の最低消費額は50元であり、それでも到底満足できるものではない。たとえば夫婦2人が月額3000元で暮らすとすれば、とても苦しく、到底中産階級などと言えるものではない。

私の生活水準は決して高いものではなく、石家庄での1日30元の消費は日常の基本需要を満たすにすぎないが、政府の基準では、その半分の消費額でも中産だという。残酷な事実を言えば、毎日13.5元という水準すら満たせない人たちが非常に多いということだ。はっきり覚えていることは、以前友だちを誘って食事に行ったが、食べたのは一番安い5、6元のものだった。それでもその友達は、この食事代は1日分の食事代に相当すると言った。事実1日5、6元で暮らしている人はいるし、しかもそれは珍しくない。

私の友人の一人は潤滑油販売会社で働いていて、毎月の収入は800元。彼女は全く蓄えもなく、収入はすべて生計維持に消えてしまう。今年の夏、彼女は私の妻に金を借りに来た、妊娠中絶の費用だという。子供を生んで育てるお金などまったくないというのだ。妻に急いで金を準備させた。政府の13.5元という水準から言えば、私の友人は中産階級のはず。にもかかわらず、自分の子供も産むことができず、中絶しようにもその費用すらままならない。政府のデータを疑うとともに、別の考えが生まれる。

政府のそのデータによれば、中国には9億の中産階級人口がいる。13.5元の消費水準ならば9億、ということは、中国にはさらに4億の1日の消費額が13.5元に達しない人たちがいるということだ。この4億人は、政府の「調和」政策の恩恵を受けていない。

13.5元で何が買えるのだろうか。きゅうりの玉子炒めとむしパンを食べようにも、玉子さえ買えない。これが中国の底辺にいる人々の現状だ。

私は毎年春節時期には故郷に戻って年を越す。故郷の人たちは依然貧しさの極みという暮らしぶりだ。私の見る限り、彼らは、冬は白菜だけしか食べていないし、一部の家では塩漬けの野菜しか食べられない。

これにはグッとくるものがあって、私を目覚めさせた。中国は貧困から脱却していないし、中国の有産権力階級のぜいたくな暮らしは塩漬け野菜しか食べられない田舎の人たちの上に築かれている。故郷では、最低の生活を目にし、都市では、多くの友人たちが貧困に喘ぎ、切り詰めた生活をしており、衣服も買えず、アイスクリームも食べられない。バスに乗るのもためらう。かりに、1日50元の生活を中産階級だとしても、その数は1億を超えることはない。大多数は底辺におり、最低の生活に苦しんでいる。

政府が13.5元を中産階級と唱えるのは、己を欺き人を欺くためなのだ。簡単な書物をでっちあげて中国を平穏な社会に見せかけようとする企みであり、耳をふさいで鈴を盗むということだ。耳をふさいで鈴を盗むということに、さらに恥の上塗りとして、責任を回避し、わかっていながら欺く行為だ。

中国人を中産階級とした背後には、どれほどの血涙が隠れていることだろうか。それが積み重なったら、中国はどこへ行ってしまうのか。私に言えるのは、友人には妊娠中絶の金もないということだ。誰が彼女たちが子供を持つ権利をはく奪したのか。

さらに、この1億人のことを見てみよう。中産階級に区分するには、経済収入と消費水準以外に、さらに重要なことがあるのではないか。中産階級という言葉は二つの言葉からできている。まず、中産とは収入水準のことであるが、階級ということばには政治性があり、政治的に権利と自由があってはじめて、中産階級ということになる。ところが、中国政府はひたすら“中産階級”という言葉の政治的な問題を避けているが、政治的な自由と権利を享受していなければ、収入があっても、ものの言えない資産奴隷であり、独立した人格という点では完全な人とは言えない。つまり、中国には根本的に本来の意味での中産階級は存在しないということだ。

独立した生命体、相対的に整った人格、法に基づく民主、自由権、法律に守られた安心感などが、中産階級の主要な構成要素だ。資産の点で条件を満たした1億人も、ほとんどが、こういったもっとも基本的な人権を保障されていない。これこそが、法治と人治の最大の違いだ。法治社会は法律を通して民衆に限定された自由を与えるが、この自由は私的権力で破られるものではなく、特権階級もない。一方、人治社会では、高い地位にあれば高い特権を享受し、いつでもその特権を人治下にある人々に行使する。このような人治社会にはもっとも基本的な安心感がなく、安心感がなければ、中産階級など言うもがなである。中国政府は、中産階級の政治面の問題を避けて語らず、中産階級の定義をわざと低く定め、虚飾の社会安定と調和という天下泰平を見せかけているが、地下では火種が燻り、早晩地上に燃え上がる。

ここでまた二人の人に思いを馳せる。一人は1日5元で暮らし、一人は妊娠中絶の費用もない。言うべき言葉も見当たらないが、政府の報告を見て、思うがままに書いた。「調和」の声の中で沈黙しなければならないという現実に向き合うと、憤怒にたえない。

(日本語ウェブ翻訳編集チーム)