宋軍が守りを固める淤口関(おこうかん)を前にしながら、遼軍の韓昌がなおも追撃を命じたのは、女将軍・楊延琪が率いる若い女兵たちがそこへ逃げていったからです。
そこで楊延昭は、諸将を集めて作戦計画を立てました。楊延昭が部隊の要員を組織してまもなく、敵である遼軍の韓昌も再び大軍を率いて淤口関(おこうかん)に迫ってきました。
遼軍の韓昌は、楊延昭が兵を退却させたのを見るや、全軍へ猛攻撃を命じました。これに対し、城を守る宋軍の孟良、焦贊らは石弓の兵を指揮して、敵軍へ雨のように矢を降らせます。さらに城壁にずらりと据えられた大砲が天を震わす轟音を上げると、寄せ来る鉄甲騎兵でさえもなかなか城門を突破することができません。
ここで紹介する「楊延昭伝奇」は、筆者が民間に伝わった逸話のいくつかを要約・抜粋したものです。千年にわたって中華民族に語り継がれてきた英雄譚を、読者の皆様にお伝えします。
ある日、楊延昭は再び小さな建物に住むようになり、翌朝、夜明け前に急いで起きて戦闘用の鎧を着ました。
すると、護衛兵が訪ねて来て楊延昭に言います。「こんなに早くにどこへ行かれるのですか?」
楊延昭は答えました。「遼の兵士がくる。急いでみんなを起こしてくれ!」
そのことを聞いた護衛兵は、どのように遼の兵士が来ることを楊延昭は知ったのかと疑問に思います。
楊延昭はそのわけを語ります。「目を覚ましてから寝台に寄りかかっていたら、遠くの方で馬の蹄鉄の振動が聞こえ、農場のアヒルとガチョウが落ち着きなく叫んでいたので、遼の兵士に違いないと思ったのだ」。
「宋の史」で有名な北宋の反遼将軍である楊延昭は、20年以上にわたって国境を守っており、遼人(キタン人)は彼を非常に恐れていました。遼人は六郎星座(将軍星座)を宿敵と信じており、楊延昭の知恵と勇敢さ、戦闘力はまるで六郎星座の星が地上に降りて生まれ変わったようで、彼を「楊六郎」と呼びました。