中国の王朝の歴史を覚えるのは難しいという人は、まず秦(紀元前221-紀元前206年)から入ることをお勧めします。秦は、最も短命の王朝でしたが、史上初めて中国全土を統一し、郡県制を整え、使用する字体を篆書(小篆)に統一し、万里の長城や兵馬俑を残しました。
2024/05/08
漢王朝(紀元前206年–紀元220年)は、しばしば中国の最初の黄金時代として知られます。漢の歴代皇帝は、黄帝や老子といった先賢の精神に則り、平和と繁栄を維持しました。
2024/05/08
宋軍が守りを固める淤口関(おこうかん)を前にしながら、遼軍の韓昌がなおも追撃を命じたのは、女将軍・楊延琪が率いる若い女兵たちがそこへ逃げていったからです。
そこで楊延昭は、諸将を集めて作戦計画を立てました。楊延昭が部隊の要員を組織してまもなく、敵である遼軍の韓昌も再び大軍を率いて淤口関(おこうかん)に迫ってきました。
遼軍の韓昌は、楊延昭が兵を退却させたのを見るや、全軍へ猛攻撃を命じました。これに対し、城を守る宋軍の孟良、焦贊らは石弓の兵を指揮して、敵軍へ雨のように矢を降らせます。さらに城壁にずらりと据えられた大砲が天を震わす轟音を上げると、寄せ来る鉄甲騎兵でさえもなかなか城門を突破することができません。
ここで紹介する「楊延昭伝奇」は、筆者が民間に伝わった逸話のいくつかを要約・抜粋したものです。千年にわたって中華民族に語り継がれてきた英雄譚を、読者の皆様にお伝えします。
庶民にしてみれば、陛下は今、仁愛の情を動物に施されましたが、自分たちには施してもらっていません。
孟子(紀元前372年?-紀元前289年)は各国を周遊していた時、訪れた斉国で貴賓として迎えられました。あるとき、斉国の宣王(?-紀元前324年)が孟子に尋ねます。
前回は友人間の信頼関係についてお話ししました。
しかし、現実社会では、すべての人がいかなることにおいても信頼を重んじ、義理を大事にするとは限らないのです。そのため、多くの人は友人に傷つけられたと感じることもあり、ひいては、一生顔を合わせないと決める人も少なくありません。
では、このような時、どうすればよいのでしょうか?
李左車の提案により、韓信は燕の王に手紙を送り、相手を降伏させました。次に、韓信は斉を征服することを計画しました。漢軍は斉を征服するために戦い、全て勝利を収めましたが、麗食其は斉王に殺されました。麗食其が殺された理由は、諸説ありますが、韓信が軍事的功績に貪欲であったためという説もあります。