中共元首相 朱鎔基が死去 江沢民との確執も長年注目

2026/08/13
更新: 2026/08/13

中国共産党(中共)の元国務院総理、朱鎔基が8月12日、北京で死去した。98歳だった。朱鎔基は1991年から2003年までの10年以上にわたり、国務院副総理、総理を歴任した。当時の中共トップ、江沢民との政策や権力をめぐる確執は、長年注目されてきた。

公開資料によると、朱鎔基は1928年、湖南省長沙市に生まれ、幼くして両親を亡くした。清華大学電機系の電機製造専攻を卒業した。かつて国家計画委員会で若くして副処長を務めたが、1958年の政治運動で「右派分子」とされ、党籍を剥奪された。後に記者から20年に及んだ「右派」としての経験について尋ねられた際、低い声で「このことはもう話したくない」と答えた。

文化大革命の終結後、朱鎔基は1983年に国家経済委員会副主任に就任した。1987年から中共上海市委員会副書記、上海市長を務めた。江沢民が1989年に中共党首に就任すると、朱鎔基は中共上海市委員会書記を務め、市長も兼任した。1991年4月、鄧小平の強い後押しを受けて国務院副総理に就任。その後、政治局常務委員、常務副総理を歴任し、一時は中国人民銀行総裁も兼任した。

1998年3月、朱鎔基は李鵬の後任として国務院総理に就任した。

朱鎔基が最後に公の場に姿を見せたのは、2018年10月、北京で清華大学経済管理学院顧問委員会の委員と面会した時だった。その後、公の場には姿を見せていない。

2020年には、病院で92歳の誕生日を迎えた。

朱鎔基と江沢民の暗闘

朱鎔基と江沢民は、上海でともに勤務していた時期から、政策や権力をめぐって対立があった。1989年の六四天安門事件後、両者は相次いで中南海入りし、江沢民は中共総書記に、朱鎔基は国務院副総理に就任した。朱鎔基が経済分野で影響力を強めるにつれ、両者の力関係も次第に注目を集めるようになった。

中共第15回党大会の際、江沢民は当時総理だった朱鎔基をけん制するため、側近の李嵐清を第一副総理に据えた。ラジオ・フリー・アジアは、特約評論員の高新氏による文章を掲載している。それによると、江沢民は1997年9月に開かれた第15回党大会で、李嵐清を政治局常務委員に入れることにこだわり、翌1998年3月に朱鎔基が李鵬から総理職を引き継ぐと同時に、李嵐清を第一副総理に就任させた。

当時は、李嵐清より9歳若い呉邦国が第一副総理になるとの観測も出ていた。高新氏は、江沢民の実際の狙いは、朱鎔基を効果的にけん制するための人事だったと分析している。

同記事によると、江沢民が1989年に中南海入りした当時、李嵐清はまだ対外経済貿易部副部長だった。しかし、李嵐清が引っ越した際には、江沢民と総理の李鵬がそろって祝いに訪れたという。高新氏は、こうした逸話も江沢民らと李嵐清の近い関係を示す一例だとしている。

雑誌「炎黄春秋」の元副社長、楊継縄もかつて、江沢民の就任後、鄧小平は江沢民が「ブルジョア自由化(資産階級自由化)との闘争」を強調するなど、極左的な政策を進めたことに強い不満を抱いていたと記している。1992年初め、当時88歳だった鄧小平は南巡を行い、冷え込んでいた「経済建設を中心とする」という方針を再び前面に押し出した。

楊の記事によると、鄧小平は1992年4月、首都鋼鉄公司を視察した際、朱鎔基は経済が分かっている。認めざるを得ないと語り、「朱鎔基を起用するのが遅すぎた」とも述べたという。この発言を受け、鄧小平が朱鎔基をさらに引き上げ、江沢民を交代させるのではないかとの観測も強まった。しかし、中共元老らの介入によって江沢民は交代しなかった。

1997年に鄧小平が死去した後、江沢民の権力は急速に拡大した。軍の実権を握り、「党の核心」となった江沢民が思うように影響力を及ぼせなかったのが、「経済皇帝」とも呼ばれた朱鎔基が主導する経済政策だった。このため、江沢民と朱鎔基の間には、経済政策や権力配分をめぐる対立があったとの見方が長年存在してきた。

高新氏は別の記事で、江沢民が本当に幹部の世代交代や党指導部全体の人事を考えていたのであれば、第一副総理には次期総理候補だった55歳の温家宝を配置するのが自然だったが、実際には65歳の李嵐清を起用したと指摘した。

高新氏は、この人事には朱鎔基と李嵐清を競わせることで、朱鎔基が江沢民の権力基盤を脅かすのを防ぐ狙いがあったとの見方を示した。

朱鎔基と江沢民の対立はこれだけではなかった。1999年4月、朱鎔基は沿海部で横行する密輸が税収を損ない、経済秩序を乱しているとして、特別調査チームを設置した。その後、アモイ遠華密輸事件が明るみに出た。

頼昌星は公安部上層部から事前に情報を得て、家族とともにカナダへ逃亡し、政治的庇護を求めた。頼昌星はカナダで、江沢民の秘書だった賈廷安や福建省委員会書記だった賈慶林らの後ろ盾があったため、石油や自動車などを大量に密輸できたと主張した。

江沢民は朱鎔基の捜査を強く妨げた。頼昌星の引き渡しを妨げる一方、朱鎔基に近い中国国際信託投資公司董事長の朱小華を収賄罪で逮捕した。

頼昌星をめぐる江沢民と朱鎔基の対立は、最終的には江沢民側に有利な形で決着したとされる。頼昌星は当時、中国本土に引き渡されず、賈慶林を含む江沢民に近い6人が2002年の中共第16回党大会で政治局常務委員入りした。一方、朱鎔基は政界の第一線から退き、朱小華は懲役15年の判決を受けた。

「4.25事件」での朱鎔基

1999年4月25日、1万人を超える法輪功学習者が北京の中南海周辺に集まり、国務院の陳情窓口などで訴えを行った。この日、アメリカ訪問から帰国したばかりの朱鎔基は、法輪功学習者の代表者と面会した。

ラジオ・フリー・アジアなどの後年の報道によると、朱鎔基は代表者らと話し合い、関係当局に訴えを取り扱うよう求めたという。

書籍『江沢民その人』によると、朱鎔基は法輪功学習者の代表を中南海に招き入れ、職員に信訪局長と代表者らとの会談を手配させた。また、天津当局に対し、拘束されていた法輪功学習者を釈放するよう指示したという。

「4.25事件」が大きな衝突なく収束したことで、朱鎔基の対応は国内外で評価された。一方、この対応が江沢民との確執をさらに深めたとの見方もある。

『江沢民其人』は、1999年4月26日に江沢民が政治局常務委員会を主宰し、法輪功問題を協議した際、朱鎔基が比較的穏健な対応を主張したのに対し、江沢民は強く反対したと記している。

海外の報道によると、朱鎔基が「彼らには煉功させておけばいい……」と発言すると、江沢民は立ち上がり、朱鎔基を指さして「あほ!あほ!あほ!党も国も滅びるぞ!」と叫んだ。

その後、中共当局は法輪功への対応を急速に強硬化させ、同年7月から大規模な弾圧が始まった。

唐兵