解説
「平等」という漠然とした目標を達成するための善意の人種差別も、結局は人種差別である。
カナダにおける和解、社会的調和、平等な機会への唯一確実な道は、すべての人に平等な権利を認め、誰にも特別な特権を与えないという原則である。法律が人種、先祖、民族、血統によって一部のカナダ人に異なる適用をされると、予測可能で避けられない結果として、争い、憎悪、恐怖が生じる。
たとえば、「カウイチャン先住民部族 対 カナダ (司法長官) 訴訟」では、ブリティッシュコロンビア(BC)州リッチモンドの一部に住むさまざまな民族の人々に対し、彼らが自分の資金で購入した土地が、自分たちの家を所有し享受する権利を保証するものではないと、BC州最高裁が判断した。
裁判所は、BC州の土地登記制度では、正式に登記された土地は「奪われない権利」とされているにもかかわらず、インディアン部族のカウイチャン先住民部族が土地の権利を主張する場合には、その登記を盾にして土地を守ることはできないと判断した。同じ土地を主張していたマスクイアム部族やツワッセン先住民部族も、裁判では敗訴した。
裁判所は、リッチモンド市の土地所有者がカウイチャン部族の土地請求を知らず、正当に購入したとしても、その事実は関係ないと判断した。カウイチャンの請求は2014年に提出されたもので、カナダ(当時は英国の植民地)が現在のBC州を支配し始めてから200年以上が経っていた。
しかし裁判所は、何世紀にもわたる支配の下でも、先住民の権利は消滅していないと認めた。BC州のほとんどの地域は、複数の先住民部族による権利請求があり、同じ土地について複数の部族が重複して権利を主張していることも珍しくない。
このカウイチャン判決は、リッチモンド市の土地所有者やBC州、さらにはカナダ全体の人々に極めて大きな不確実性をもたらす。
リッチモンド市の証人は、カウイチャン判決で請求対象となっている私有・公共インフラの現在価値は約1千億ドル(約15.4兆円)にのぼり、これをカウイチャン部族の各メンバーに換算すると、非課税で1人あたり約1200万ドル(約18億4千万円)に相当すると証言した。
しかし、果たしてこのカウイチャン判決が、先住民の血を引くカナダ人と、中国系、インド系、フィリピン系、ナイジェリア系、ドイツ系、イギリス系など、さまざまなバックグラウンドを持つカナダ人の間に和解をもたらすと、本気で信じる人がいるだろうか。もちろんそんなことはありえない。現実に生まれるのは、異なる民族間の恐怖や争い、対立だけだ。
一部の人は、「私たちは彼らの土地を奪ったのだから」として、この判決を公正だと称賛している。しかし、2025年の「私たち」とは誰を指すのか? 今日生きているカナダ人の中で、先住民から土地を奪ったと正直に言える人はいるだろうか? もちろんいない。裁判所の法的論理は世代を超えた罪の概念に基づくもので、遠い先祖の罪(実際のものでも推定されるものでも)を子孫が償わなければならないとしている。
もしこの論理を現代のドイツ人や日本人に適用すれば、第二次世界大戦で先祖が犯した残虐行為の責任を今の世代が負わされることになる。
世界のほとんどの国は300年前には存在していなかったか、少なくとも現在の国境や民族構成では存在していなかった。どの大陸も、異なる民族集団間の軍事的、言語的、文化的、経済的な征服の歴史が長くある。では、すべての民族や国に世代間責任の原則を適用することは良い考えだろうか? そうでないなら、なぜ今カナダで試みるのだろうか。
「抑圧者」グループや「被害者」グループに属するかどうかによって法的権利や義務を定義することはマルクス主義的である。マルクス主義は個人の尊厳と価値を否定し、常に戦争状態にあるグループに執着する。
旧マルクス主義では、文化や経済を含む社会のあらゆる側面を、資本家という抑圧者と労働者という被害者との永遠の闘争として捉えていた。一方、新マルクス主義は経済や階級闘争にあまり関心を持たず、男性と女性、白人と黒人、異性愛者と同性愛者、ユダヤ人とムスリムなど、さまざまな対立に注目する。
どちらの考え方も、犠牲者グループが抑圧者グループを打ち負かすことで理想的な平等社会を作ることを目指し、そのために法律や裁判所の判決、政府政策、場合によっては暴力などを使うことを正当化している。どちらも、人権、私有財産、表現や結社、宗教や良心の自由といった基本的な自由に敵対的で、カウイチャン判決は、この新マルクス主義的な考え方の典型例といえる。
16世紀、フランス人とイギリス人が北米に到来すると、カナダは狩猟採集経済(文化)からまったく異なる経済(文化)へと変革した。ヨーロッパ人は徐々にカナダの土地を占有し、農業、産業、個人の私有財産権、成文法、言語、宗教、裁判所、軍隊、警察、学校、病院、大学などを導入した。
北米到来前の先住民族部族も、他大陸の民族集団と同様に戦い、殺し、誘拐し、拷問し、奴隷にしていた。人間の本性には美しさも醜さも栄光も堕落も含まれまる。
1500年代以降、カナダにはフランス人、イギリス人、インド系、アイルランド人、中国人、ジャマイカ人、スコットランド人、日本人、ナイジェリア人、ウクライナ人、ドイツ人、イタリア人、ロシア人、メキシコ人…など、文字通り何百もの異なる民族が移住してきた。数世紀にわたり、多くの先住民族グループに加えて、世界中から多様な民族が加わった。
もしウクライナ系がインド系より先にカナダに来ていたなら、ウクライナ系が優先的な法的権利を持つべきだろうか? フランス系が中国系より先に来ていたなら、フランス系カナダ人は中国系カナダ人より優遇されるべきだろうか? ピーターが1600年代からのカナダ生まれの先祖をもっているなら、1800年代に移住したポールと権利が異なるべきだろうか? そしてポールは先週カナダ市民になったハイチ生まれのスザンヌより多くの権利や自由を持つべきだろうか?
なぜ先住民族の血を引くカナダ人が、ヨーロッパ系、アジア系、アフリカ系のカナダ人より優越(あるいは「平等だが異なる」)した法的権利を享受すべきなのか? 先住民族が他の民族より先にカナダに到着したという事実は、法律適用において全く無関係であるべきだ。
異なる先住民族部族がヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人到来前にこの土地に住んでいたことを誰も否定していない。しかし問題は、それが法律上なぜ重要なのか、ということだ。
1982年憲法法第35条は、カナダの先住民(ファーストネーション、イヌイット、メティ)の既存の権利と条約上の権利を「認め、確認する」と規定している。これは、先住民が保留地の所有権を持つ権利として合理的に解釈できる。
しかし残念ながら、カナダの裁判所は第35条を用いて、人種差別的な法律や政策、判決を生む多くの革新的な法理を創出してきた。これは和解を進めるどころか、カナダ人の信頼と社会的結束を積極的に損なうものである。
かつてカナダ人は、政府が個人を白人、黒人、カラード、インディアンに分類し、異なる権利や義務を与える南アフリカのアパルトヘイトを正当に非難した。
残念ながら、カナダ人の中には、裁判官も含め、人種差別が本質的に悪であるとは考えない人がいる。彼らは、不当な人種差別(南アのアパルトヘイト)と、今カナダに押し付けようとしている「正当な」人種差別を区別している。
しかし、善意による人種差別も正しい人種差別も存在しない。民族に基づいて法的権利を与えるという考え方は、意図が善意であっても愚かで危険だ。
血統や民族に応じて異なる権利を認める法律や裁判、憲法は、必ず憎悪や対立、場合によってはそれ以上の混乱を生む。
カナダはすべての形の人種差別を拒否し、「すべての人に平等な権利を、誰にも特別な特権を与えない」という原則を受け入れる時だ。
ジョン・カーペイ(John Carpay)は、憲法自由のための司法センター(Justice Centre for Constitutional Freedoms, jccf.ca)の代表である。

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