漫画『ベルサイユのばら』の映画版は、昨年(2024年)の秋に公開された。原作の漫画は池田理代子氏によって描かれたものであり、「少女漫画」あるいは「恋愛小説」と呼ばれるジャンルに属している。本記事はこの映画、そして原作漫画について論じる全5回シリーズの第2回目の記事である。
I. 歪んだ同性愛者の転覆運動
本作の核心的な問題点は、「レディ・オスカル」が男性と瓜二つの女性として、作品内で女王の近衛隊長を務めている点にある。
もちろん、実在の人物ではなく、本来ありえないこの設定には、同性愛者の転覆的な運動への誘惑が潜んでいる。オスカルは女性でありながら男性になりきり、自身の女性らしさを忘れようとするが、結果的にどこかで女性らしさに立ち戻る運命にある。
そして、きわめて女性的なフェルセン、さらにオスカルの幼馴染で彼女を愛する使用人アンドレ――これらはいずれも、この種の作品に固有の息苦しい感傷主義を体現しており、理性や高潔な愛をすべて排除している。
それはさておき、なぜこのような同性愛を中心に据えた作品がこれほど有名になったのだろうか。
本作は、その中心かつ神髄において、実在しない人物を創出し、歴史的現実を歪める選択をしている。加えて、旧体制下ではまったく想像できないような状況を物語の中心に据えている。当時の社会では、女性が男性になりすますこと自体があり得ず、武器を手に父親の名と家業を継ぐという発想も、歴史的に前例のない話である。
非常にカトリック的な旧体制においては、当然のことながら、同性愛という不自然な罪を嫌悪していただけでなく、両性の補完的な役割を賢明に教えられていた。そのため、必要に応じて女性が指導的立場に立つこともよくあった。例えば、夫が亡くなり、成人した相続人がいない場合、女性は一種の摂政を務めた。フランスの女王たちの摂政の例は、歴史上枚挙に暇がない。
女性はまた、血統・家を代表する存在として、慣習に応じて、夫の干渉を受けずに、財産や領地を別個に、時には独立して相続することも可能だった。しかし、これらはフェミニズムやその他の思想とは何の関係もない。単に、血統、家族、王国の公益に奉仕する義務として存在していた慣習だった。歴史的背景によっては、女性が男性だけの修道院を統治することさえもあった。これらの要素は昔のフランスの現実だった。多様的な現場の事実がありながらも、転覆運動や思想上の革命を許すものではなかった。
しかし、繰り返しになるが、これらはフェミニズムではなく、マッチズモでもなかった。女性への憎しみこそが革命の産物だった。マリー・アントワネットへの執拗な迫害はその最初の表れだ。革命家たちは女性を憎み、旧体制を批判し、宮廷の女性たちの影響力と、女性的とみなされた風習を非難していた。
この問題に関する専門家の言葉を引用しよう。
”革命とは、特権に対する平等の勝利であるだけでなく、男性による女性世界への復讐でもある。エリザベス・ヴィジェ・ルブランは回想録でこう述べている。『当時、女性は支配していた。革命は彼女たちを王位から追放した。「女性が男性になるような社会は不幸だ!」と、クレリーの「日記」偽作版の編者は注釈する』”(『女王を裁く』エマニュエル・ド・ワレスキエル、p.176)
さらに、「革命家たちはそれをよく理解していた。母親に触れることは、王室の血統の聖性を傷つけることであり、それを断ち切ることであり、それとともに、王政を再び打倒することだ。その賭けは大きい。なぜなら、小さなカペは、シモン夫妻の監視の下、テンプル塔の1階に監禁されたまま、まだ生きていたからだ。そしてこの子供は王だ。母親を辱めることは、息子をも辱めることだ。共和国の目から見れば、決して滅びない体質を持つ君主制の『生きている体』を穢すことになる」(同上、p.182)
結論として、この作品で提案されている性別の転覆運動は、道徳的に問題があり、歴史的事実にも反している。旧体制の社会の実態を完全に歪曲している点で、その誤りは一層深刻である。
この転覆運動は、1970年代の日本社会が、ますます抑制のない快楽主義に迷い込んだ、歪んだ幻想を反映しているといえるだろう。
(つづく)
第1回:革命と宮廷の幻想――『ベルサイユのばら』が作ったフィクションと歴史認識の危うさ
第2回:「レディ・オスカル」の同性愛的転覆と歴史の歪曲――旧体制と女性像の真実
第3回:バスティーユ襲撃の真実――革命の血塗られた幕開けと歴史の再考
第4回:江戸がヴェルサイユを覆う――日本式封建ドラマとしての『ベルばら』
第5回:虚像が歴史を支配する時 「ベルばら革命」に警鐘を鳴らす
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