漫画『ベルサイユのばら』の映画版は、昨年(2024年)の秋に公開された。原作の漫画は池田理代子氏によって描かれたものであり、「少女漫画」あるいは「恋愛小説」と呼ばれるジャンルに属している。本記事はこの映画、そして原作漫画について論じる全5回シリーズの最終章第5回目の記事である。
IV. 革命のドクサ(定型的イメージ)におけるマリー・アントワネットとルイ16世像
革命史で語られる王族のイメージは、定型的なイメージ――すなわち愚かで軟弱なルイ16世と、軽薄なマリー・アントワネット――というものから抜け出せないでいる。しかし、この点に関する歴史学は大きく進展し、ルイ16世が実際には極めて複雑な状況に直面しながらも、偉大な王として職責を果たそうとしたこと、マリー・アントワネットが公共の利益に心を配っていたことが明らかにされている。
ジャン・ド・ヴィジェリーによるルイ16世の伝記や、エマニュエル・ド・ワレスキエルの『マリー・アントワネットの裁判』(邦訳も存在し、『マリーアントワネットの最後の日々』として知られる)を読めば、この現実を理解できるはずである。
ルイ16世の遺言を読むだけでも、王の深い信徳と、フランスとその国民、さらには革命家たちに対しても犠牲を厭わない献身的な姿勢がわかる。マリー・アントワネットの尊厳と諦観は、この映画や漫画が描く現実とはまったく逆の真実を物語っている。
結論
歴史小説や、私たちの歴史を軽率かつ自由に脚色するあらゆる文学は、その目的が時代を忠実に再現することではなく、読者を「楽しませる」ことや、まったく別の時代や人物に個人的な幻想やコンプレックスを投影することにある場合、常に問題となる。
その影響は甚大で、そのイメージは人々の心に定着し、その分野に精通していない一般の人々は、たとえ知識が豊富であっても、真偽を容易に区別できず、何らかの形で誤解してしまう。
私たちは、すでに存在するいくつかの作品(女王の裁判を描いた映画や『シャルロット』など)のように、旧体制とフランス革命の現実のバランスを取り戻すための新しい映画やドキュメンタリーがさらに増えることを願うしかない。
この映画を観たことにより、このジャンルにおいて作者への信頼がいかに重要であるかを改めて認識した。出典も注釈も、言及された内容を検証する手段は何もなく、最後に残るのは作者への信頼だけだ…。
(完)
第1回:革命と宮廷の幻想――『ベルサイユのばら』が作ったフィクションと歴史認識の危うさ
第2回:「レディ・オスカル」の同性愛的転覆と歴史の歪曲――旧体制と女性像の真実
第3回:バスティーユ襲撃の真実――革命の血塗られた幕開けと歴史の再考
第4回:江戸がヴェルサイユを覆う――日本式封建ドラマとしての『ベルばら』
第5回:虚像が歴史を支配する時 「ベルばら革命」に警鐘を鳴らす
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