「人助けを自分の喜びとする」ことは中華民族の伝統的な美徳だった。
しかし、孟子の時代から二千数百年を経た今の中国では、町で倒れている人を見ても助けるかどうか躊躇する人が、残念ながら非常に多い。
正確に言えば、人助けの気持ちはあっても、それを実行することに大きな迷いが生じるのだ。その結果として、見て見ぬふりをして通り過ぎるのである。
例えば、道端に倒れている人がいて、いざ助けようとすると、周りから「関わらないほうがいい、後であなたのせいにされかねないから」と言われてしまう。
実際に、それで濡れ衣を着せられ、裁判沙汰にまでなって高額な損害賠償を命じられた親切な人がいる。以来、中国は「人助けをしたくても、できない大国」になってしまった。
1月30日、中国黒竜江省でも、「人助けができない」一幕が記録された。
(うかつに「人助け」ができない国、2025年1月30日、中国黒竜江省)
そこには雪が積もる町の道路で転倒して起き上がれなくなったため、絶えず通行人に助けを求める老婆の姿があった。
しかし、面倒なことに巻き込まれたくない周囲の人たちは、助けることができない。
なかには「婆さん、面倒なことに巻き込まれるのはごめんだ。いい年越しを過ごさせてくれ」と口に出して言う者までいたという。
老婆の周りにはカメラを構えていたり、ライブ配信する者もいた。それでも、面倒に巻き込まれたくないからと、誰もが手を差し伸べない。
これが現代中国のリアルである。
なぜ中国はこのような国になったのだろうか。
大紀元の社説『共産党についての九つの論評』の【第六評】中国共産党による民族文化の破壊では、中国の伝統文化には天と地への敬畏があり、道徳が重んじられ、伝統文化の「天道」は道徳、善悪を量る最終基準であったが、中国共産党はこのような伝統文化が彼らの政権維持にとって最大の障碍であると見なし、破壊した。
【第九評】中国共産党の無頼の本性によると、中国共産党は、中国に来てから、ほとんど全ての伝統宗教を弾圧し、伝統的な価値観を破壊し、手段を選ばずに財を掠め取り、人民を欺き、社会全体を急速に無頼化させたとしている。
「無頼漢的手段で政治を進める中国共産党(中共)にとっては、本質からしても、その生存環境として無頼化した社会が不可欠であるため、あらゆる手段を講じて、人民を悪事に引きずり込み、中国人民を様々な程度の大小異なる無頼漢に仕上げようとしている。中共の無頼としての本性は、このようにして中華民族を守りつないでいる道徳の基盤を破滅させているのである」
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