今年で天安門事件から35年。1989年の春、学生たちが北京の天安門広場で始めた平和的な民主化運動は、中国共産党の手によって無惨にも鎮圧された。この取材記事では、事件の証人であり、法学者の袁紅冰(えんこうひょう)氏がその時の悲劇を振り返る。彼の証言から浮かび上がるのは、戦車と鉄柵によって命を奪われた無辜の学生たちの姿。この衝撃的な真実を通じて、私たちは歴史の重要な一ページを再検証する。中国国内では一切見られない真実である。
今年で天安門事件から35年が経過し、世界中で追悼活動が盛んに行われている。事件の目撃者であり法学者の袁紅冰氏は、大紀元新聞のインタビューで、当時の悲劇的な状況を振り返った。彼が強調する教訓は、中国がこれから自由と民主主義を実現するために、国民の広範な抵抗と民衆の立ち上がりが、共産党の独裁を終わらせるためには不可欠だということである。
1979年から1986年にかけて、袁紅冰氏は北京大学法学部で学び、その後北京大学で教員として勤めた。1989年の天安門事件時、彼は「北京大学教師後援団」を立ち上げ、ハンガーストライキを行った。授業が中断され取り調べを受けた。1994年3月2日、「社会主義制度の転覆」容疑で秘密裏に逮捕され、その年末に貴州へ流刑、貴州師範大学で教鞭を執り、法学院の院長を務めた。その後、2004年にオーストラリアへ亡命したのである。
忘れ難い悲劇の一幕 戦車が学生を意図的に鉄柵に押し付けて殺した
記者、「天安門事件」での中国共産党軍による学生と市民への弾圧について、どのように感じていましたか?
袁紅冰、1989年6月3日、私は風邪の高熱で苦しんでいました。午後8時頃、軍隊が北京市に進入し、戒厳令が敷かれたと聞き、すぐに北京大学近くの自宅を出発し、自転車で木樨地(もくせいち)へ向かいました。約1時間後に到着すると、軍は既に発砲していました。
長安街では、多くの市民が道端の低木に隠れていました。彼らは地面に敷かれた方砖(厚い平板)を持ち上げ、それを叩き割ると、9つの拳大な破片になりました。
最も衝撃的だったのは、人の姿は見えないものの、怒りの声が周囲に満ち、特に李鵬首相への非難が際立っていました。笛の音が3回鳴り、その合図で兵士たちは長安街を車で進み、両側に銃を撃ちました。市民たちは、集めた破片を軍の車両に向けて投げ、抵抗しまた。
その混乱の中で、私は数人の負傷者を背負って病院へ運びました。私のシャツは血で真っ赤に染まっていました。
心が痛む中でも、忘れられないのは、白い服を着た若い女の子の姿でした。彼女は恐怖に震えていたのでしょう。銃声の中、彼女は、突然前に走り出しました。止めようとした私は、残念なことに、私の腕は空を切り、彼女を掴めなかったのです。直後、後ろからの銃弾が彼女を貫き、彼女の体は空中に舞い上がり、引き裂かれて地に落ちました。何もできない状況で、彼女の命を救うことはできず、彼女の呼吸は途絶えました。
その後、私は、必死の思いで、天安門広場の六部口へ向かいました。そこで、学生たちが広場から逃れる様子や、中国共産党の戦車が、彼らを追いかけ、道端の鉄柵に学生たちを押し付けて殺す場面を目撃しました。血が飛び散る光景を見て、その血の音が戦車の轟音を上回るほどでした。
また、六部口の近くで、完全に潰れた学生の遺体を目撃しました。彼は手に旗を持っており、その旗は陝西省のある師範学院のものと思わました。
夜が明けて、私は自転車で大学を巡りました。多くの大学の入口には、学生たちの遺体が無残にも積み重ねられていました。北京大学では、法学部の教員が三輪車で遺体を運びながら、キャンパス内を行き来し、中国共産党の残酷な行為に対する深い悲しみと抗議の意を示していました。
これが、その日に私が目撃した悲惨な虐殺の現場です。特に印象的だったのは、戦車が履帯で学生たちを鉄柵に押し潰し、意図的に命を奪う瞬間でした。これが中国共産党の残酷な支配の現実なのです。
後になって、情報によると、その夜、中国共産党は軍人に興奮剤を投与していたことが、彼らの狂気的な虐殺の原因であったとされています。
予兆もなく、突然の虐殺
記者、中国共産党が発砲する兆候はありましたか? 情報はありましたか?
袁紅冰、「いいえ、全く予想していませんでした。その理由は、事件前に北京大学の若手教員たちが聶榮臻元帥、徐向前元帥、秦基偉氏と接触していたからです。私はその教員支援グループのリーダーで、創立メンバーの一人でした。私たちが得た情報では、元帥たちや当時の国防部長である秦基偉氏を含む彼らは、人民の軍隊が人民に銃を向けることは絶対にないと断言していました。また、若手教員たちが軍の高官たちを説得しようとしていたという話もあり、情報は全体的に楽観的で、そのような命令は実行されないと考えられていました」
1989年5月19日、中国共産党は戒厳令を発布しました。私は北京大学の教員支援団のハンガーストライキ隊を率い、天安門広場の左側にある指揮台にいました。戒厳令は軍隊が北京都市部に展開することを意味し、私たちは、広場で学生たちを守るための準備を始めました。
その夜、市民たちが交差点にバリケードを築いたため、軍の市内への進入が阻止されました。後に、当時の指導者である鄧小平が非常に恐れていたことが明らかになりました。軍が市内に入れなかった場合、彼は大きな危機に瀕していたとされています。彼は軍を北京周辺の山地に移動させ、情報を遮断し、洗脳して封鎖状態で行軍させたといいます。
5月19日に軍が市内に入らなかったことで、私たちは油断してしまいました。しかし、6月3日の夜、戒厳令の放送を聞いて、状況の深刻さを理解し、急いで外に出ました。
6月3日の午後8時を過ぎ、大虐殺は夜通し続き、翌朝まで終わりませんでした。長安街よりもさらに激しい虐殺が虎坊橋で行われたとされ、木樨地ではなかったと言われています。
死者数の確定が困難で、地方出身の学生が多数を占める
記者、「六四事件」での犠牲者数には異なる見解がありますが、公開されたイギリスの機密文書によると、最低1万人が、中国共産党軍に殺害されたと推定されています。例えば、北京大学で亡くなった学生の数をご存知ですか?
袁紅冰、北京大学の犠牲者数に関する具体的な統計はありません。運動の初期には、主に北京の学生が活動の中心でした。5月から6月の気候は、昼間は日差しが強く非常に暑く、夜は秋のように冷え込みました。座り込みやハンガーストライキに参加していたのは、ほとんどが北京の学生でした。1986年に私が担当したクラスでは、広場に行かなかったのは肖建華さんだけでした。彼は法学部の学生でした。
6月に入ると、ハンガーストライキに参加していた私の学生たちは体力的にも限界に達し、多くの北京の学生たちは天安門広場を去っていきました。
夜になると、広場には多くのテントが並び、主に他の地方から来た学生たちが滞在していましたが、北京の学生も少数いました。その夜、亡くなったのは主に北京の市民と、勇敢に抵抗した他の地方の学生たちでした。地方からの学生の死亡者数については、正確な情報はありません。
地方からの学生たちが行方不明になり、警察に届け出ることもできず、家族も彼らが北京にいたことを認めることができませんでした。生存が確認できない中、生きていたとしても将来的に、共産党からの迫害を恐れ、北京に行ったことを公にすることはできなかったのです。そのため、犠牲者の正確な数を知ることは不可能でした。
その悲惨な夜、犠牲になったのは、主に地方からの学生たちでした。
李克強との決別
記者、「六四事件」の際、後に首相になった李克強氏はどのような対応をしたのですか?
袁紅冰、李克強氏は当時、中国共産党青年団の中央に勤めていました。彼との意見の相違は、「六四事件」をきっかけに始まりました。六四事件後、彼は公に文書を発表し、鄧小平の弾圧政策を支持し、共産党の専制に賛同する姿勢を示しました。そのため、彼に対する私たちの信頼は完全に失われました。
北京大学に在籍していた時、李克強氏はしばしば私たち若手教員のグループに参加していました。1987年以降、私たち若手教員は共産党の体制に内側から影響を与え、権力を握ることで、中国の改革を進めるという共通の理念を持っていました。彼もその時は同じ情熱を持っていました。しかし、1989年の「六四事件」を経て、彼は以前の政治的姿勢を捨て、それ以降、私たちと道は分かれたのです。
中国が自由民主主義へ進むためには、国民全体の抵抗が必要です
記者、天安門事件を振り返ると、当時の学生と現代の若者の違いを感じますか?
袁紅冰、当時の共産党総書記の胡耀邦は共産党内で良心的なリーダーでした。彼の指導下で、中国は10年間思想の自由が広がる時代を迎えました。彼が党から追放された理由は、推進した資産階級の自由化、すなわち思想の自由化でした。胡耀邦の政策のもと、当時の中国は活気に満ち、若者たちの思考も活発でした。
北京大学では、その期間、ほぼ毎晩様々な学術講座が開催され、官僚たちも自由に意見を交換していました。その環境で、中国の若者たちは国家への熱意、理想主義、そして自由民主主義への強い情熱を育てていました。
記者、大学の教員として、天安門事件に参加した時の感情を教えてください
袁紅冰、「私たちは、中国が自由と民主の道を歩むべきだと強く信じています。当時、朱厚澤、張顯揚、孫長江、鄭仲兵、そして人民日報の秦川や王若水のような胡耀邦政権下の改革派官僚たちと協力し、民主化を推進していました。胡耀邦が失脚した後、私たちは鄧小平に対して強い反感を持っていました。
胡耀邦は政治の自由化と開放を通じて経済改革を進めようとしていたのに対し、鄧小平は市場経済の改革に焦点を当て、政治面では共産党の指導を含む「四つの基本原則」を守り続けました。鄧小平は中国共産党の独裁を支える頑固な官僚と見なされがちですが、胡耀邦は党内で良心的な役割を果たしていました。
記者、中国で天安門事件のような民主運動が再び起こる可能性があると思いますか?
袁紅冰、私はそうは思いません。中国が自由と民主主義を実現するには、過去のソ連の例を参考に、国民全体の抵抗が必要です。民衆の蜂起が共産党の圧政を終わらせる唯一の方法なのです。国民が目覚めなければ、共産党の圧政は終わりません。今後、中国で起こるかもしれない全国的な抵抗は、学生ではなく、社会の知識層や他の層の人々が主導し、国民全体の抵抗と民衆の蜂起を促すことができるでしょう。
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