「母は首吊り、父は拷問」 中国に移住した朝鮮族男性が振り返る悲劇的な半生

2024/04/21
更新: 2024/04/20

「父は膝が腐って骨が露出し、母は首を吊らされた」韓国に移住した77歳の朝鮮族、パク・ハンヒョさんは、中国の文化大革命時の体験を回想し、「ひどすぎる、ひどすぎる」と過去を嘆いた。

パクさんの父は幼い頃、日本の植民地支配下にあった祖国を離れ、朝鮮半島の江原道から中国東北部へと北上した。飢饉から逃れるためではなく、異国の地での生涯を切り開くことになった。

16歳の兄は南北朝鮮の戦争へ

パクさんはエポックタイムズの取材に応じ、「幼い頃から中国で一連の運動を経験した」と話した。特に1950年、当時16歳だった兄は、中共の「反米・北朝鮮支持」の旗の下、南北朝鮮の戦場に駆けつけた。

中共が情報を封鎖したため、当時中国では何も知らなかったというパクさんは、「朝鮮の首都を一瞬にして陥落させたことを韓国に来て初めて知った」と話した。

これに対し、国連はアメリカのマッカーサー元帥を総司令官とする各国からなる国連軍を北朝鮮に派遣し、北朝鮮を38度線以北に撃退させた。毛沢東は、米国が中国と北朝鮮の国境を越えないことを知りながら、「米国の侵略に抵抗する」、「国を守る」というスローガンを掲げて突如参戦した。

パクさんは「中共は兵力を確保するため、結婚の有無にかかわらず、一家の男性二人のうち一人は義務的に入隊させるようにした」と話した。朝鮮半島から中国に移住した朝鮮族が祖国に戻り、戦場で同胞と殺戮の戦いを繰り広げた。

パクさんは「当時、兄は16歳で小学校を卒業したばかりで、私は5歳だった。どちらかが行かなければならないので、兄を韓国戦争に行かせた」とはっきりと覚えている。

パクさんは続けて「村の人たちはほとんど帰ってこられずに戦場で死んだ。弟は若くて背も高くなかったが、義勇軍で衛生兵として働き、幸運にも生きて帰ってくることができた」と話した。

大躍進運動、飢餓の記憶

朝鮮戦争終結後、多くの政治運動が盛り上がる中、毛沢東は「英国に追いつけ、アメリカを追い越せ」、「共産主義に突っ走れ」と、いわゆる「大躍進」運動を展開し、全国民を対象とした「大製鉄」運動を始めた。

当時小学校4年生だったパクさんは、自分が住んでいた村に大きな鉄炉専用敷地があり、家に鉄くずがある人は鉄くずを提供しなければならないことを知った。彼は「私たち生徒は月に一度、小さなハンマーを持ってそこに行き、鉱石を細かく砕いて運んだ」と語った。

彼はまた、足枷をつけられたまま道路を歩く男も見た。後で聞いたところ、「この男は反革命分子の烙印を押され、更生を受けなければならなかった」そうで、足枷をつけられた理由は、「製鉄は人民の労働であり、経済を悪化させる」と反対していたからだという。

当時、人々は鉄鋼の精錬に忙殺され、農地のことなど気にもかけず、土の中で腐って熟した作物を回収する人もいなかった。同時に、人民日報の「人民が大胆であればあるほど、土地はいくらでも生産できる」という宣伝に呼応して、各地で嘘の生産率が発表された。それに応じて食料が強制的に徴収され、最終的に約4500万人が飢餓に陥った。

パクさんは、大躍進時代の3年間の食糧不足について、「あまりにつらかった」と語り、「3年以上も食べ物がなかった。 籾殻まで食べてお腹が痛かったが、食べるしかなかった」と話した。

生きていくために、人々は山菜を掘って食べたという。 山菜の毒性を見分けられず、山菜を掘って中毒になった人もいた。パクさんは「山のように大きな腹」をした毒に冒された農民を見たことがある。

母は人を救ったが、文革で非難され首を吊られた

中国での50年間を振り返って、彼の心に最も強く残っているのは、毛沢東が起こした1966年の文化大革命である。

国家主席から庶民、地主、資本家、秘密工作員、知識人、宗教信者に至るまで、あらゆる階層の人々を巻き込み、多くの中国人が「動乱の10年」と呼ぶこの10年間は、中共による伝統文化の徹底的な弾圧と抹殺であった。

パクさんによれば、彼の母親は民間療法をたくさん知っていたため、村では善人として認められていた。 医者でも手の施しようがないような病気もあったが、彼女はお金を取らずに治すことができた。そのため、村で彼女を知らない者はいなかった。

しかし、こうした治療が、文化大革命の間、パクさんの母親が批判される口実となった。

文化大革命の結果、中国では何千年にもわたる貴重な文物が失われ、多くの民間療法が姿を消した。

その結果、パクさんの母は 「黒い医者」、「労働者階級の敵 」の烙印を押され、毎日のように批判された。パクさんは「母は小屋に隔離され、首を吊られた。 顔を上げることも許されず、上げると殴られた。最後は猫背になった」と 言った。

日中、村人たちから非難され、夜になって誰かがこっそり母親に薬を飲ませたという。

にもかかわらず、パクさんの母は思いつめた末に首を吊ることを選んだ。 幸い、遠くから彼女を見かけた牛飼いに助けられた。しかし、そうした貴重な民間療法が伝承されることはなかった。

父は「自白」したが、膝を折られた

パクさんの父は生計を立てるために国民政府警察の試験を受けたが、中国共産党の「自白すれば寛大に処理する」という方針に従い、警察官としての経験を政府に報告した。 しかし、文化大革命が始まると、彼は反革命分子の烙印を押され、街頭で批判され、多くの苦しみを味わった。

パクさんは、「父のふくらはぎの前に棒を突き立て、石の上にひざまずかせ、膝が腐って骨が露出するほど闘わせた。 父はまた、唐辛子の水を口と鼻に流し込まれた」と話した。

「労働者階級の敵 」のため、パクさんの両親は最も汚く、最も疲れる仕事しかできない。食べるにも不十分であり、最悪の土地が割り当てられ、植えた食糧がほとんど育たなかったとしても、それでも植えなければならなかった。

振り返って、パクさんは、善も悪も報われるものだと嘆息する。 文化大革命の後、「私の両親と戦った人たちは早く死んでしまい、逆に私たち家族は他の人たちよりも少し良い暮らしをしていた」のが不思議だと語った。

徐依
関連特集: 人権問題