中国共産党の首魁・習近平が昨年12月14日に広西省を視察した際に、現地の農村にあるサトウキビ畑を訪れた。
習が立ち寄ったサトウキビ畑は、その後、現地当局によって料金をとる「観光名所」となっていた。その畑が最近、何者かによって放火されたことがわかった。
燃える畑の傍らで、ゲラゲラ笑う声
今月11日、サトウキビ畑が放火され燃え広がる様子を捉えた動画がネットに投稿され、物議を醸している。民間では、これを「政治事件だ」と皮肉る声も上がっている。
さらに、SNSなどでは「よくぞ燃やした」と称賛する声も広がっている。放火した犯人は捕まっておらず、誰であるかは不明だが、民衆から「勇者だ」と呼ばれるほどのヒーローになっている。
中国の著名なジャーナリスト・高瑜氏によると「サトウキビ畑は市民の誰かによって放火された。現地当局は、消防車を緊急出動させて消火にあたるとともに、多数の警察と国保(国内安全保衛支隊)を現場に派遣して、集まる市民が火災現場を撮影するのを阻止した」という。
ネットに投稿された動画のなかには、燃え広がるサトウキビ畑を見物に来ていた野次馬たちがゲラゲラ笑う声も収められていた。
この何の変哲もないサトウキビ畑は、習の視察の後、奇妙な「観光名所」となった。
多くの市民が、畑のサトウキビの束を触った習近平のポーズをまねして撮影するのだ。そのため、やがて1人20元(約400円)の「利用料」を徴収するようになった。
有料ではあるが、これがなかなかの人気で、サトウキビ畑のこの場所には、連日のように行列ができていた。
「毛沢東時代の悪夢」が再来か
今から60年ほど前の毛沢東時代には、このような現象は多くあった。毛沢東が視察に訪れた農村では、毛が手で触れた全ての物品が「格別のモノ」となり、馬鹿馬鹿しいほど丁重に扱われて保存された。
しかし当時は、そうした無知蒙昧な神格化を絶対の価値観としていた。それに対して疑問や異議を唱えることは、生命の危険に直結したのである
今日の習近平が、数十年前の毛沢東のような自己神格化を目指しているという指摘は、一面においては当たっているだろう。
確かに、習近平が視察先で使ったあらゆるモノが(それこそ茶器から便器に至るまで)ガラスケースに入れられて、まるで博物館の展示物と同じような扱いを受けている。
現地の中共当局が、そうした嘔吐感を覚えるような阿諛(おべっか)を惜しまないのだ。
人民に尊敬されない「裸の王様」
ただし、60年前の毛とは決定的に違う部分もある。
習近平が触ったサトウキビのある場所で、同じポーズをとりながら観光客が写真を撮ること自体、60年前の毛沢東の時代には絶対になかった。もしあったとすれば、それこそ毛への不敬罪で、その人間の命はないからである。
いま習近平が(おそらく習自身も気づかずに)たどっているのは、毛沢東のような神格化ではなく、その風貌から「くまのプーさん」と揶揄されるように、お手本から明らかにズレたパロディ化の道であろう。
つまり、民衆がサトウキビ畑で同じポーズをとることは、習近平にとって、中国人民に尊敬されているからでは全くなく、からかわれ、完全に嘲笑されているからなのだ。
農民の畑への放火は、もちろん許されない行為である。ただし、この度の放火は、そうした民衆による嘲笑の延長線上にあると考えられる。
火災現場では、さほど緊張感もないまま、消火にあたる消防車が放水している。しかしその火の傍らでは、民衆が腹をかかえてゲラゲラ笑う声が聞こえているのは何故だろうか。
その笑い声が、この場面における習近平の「悲しむべきほどの喜劇性」を象徴していると言ってよい。その意味において、習がいる現在の境遇は、アンデルセン童話「裸の王様」のそれに、いくらか近いであろう。
ともかく、誰もが馬鹿馬鹿しく思っているサトウキビ畑の「観光名所」に、火が放たれた。
北京に戻っている習近平が、この知らせを聞いて、どのように受け止めるかは習本人でなければ分からないが、あるいは周囲の佞臣どもが、習の耳に入れないかもしれない。
(燃えるサトウキビ畑に放水する消防車。しかしその傍らでは、民衆がゲラゲラ笑う声まで聞こえている)
確かに、中国では近年、習近平への個人崇拝は、かつての毛沢東時代を彷彿とさせるような「神格化」の段階へと進んでいる。
習が使用した品々が「展示」される現象は、すでに中国の各地で見られていた。一部の都市には「習語録」を朗読するための、専用の路上ミニKTV(電話ボックスのようなブース)まで出現している。
そのような背景から、今回の「サトウキビ畑への放火」は、習近平への個人崇拝を強要する風潮に対する、市民からの反発の一端とも考えられる。
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