日本の垂秀夫中国大使は22日、離任レセプションで挨拶した。40年あまり中国に携わってきた経歴を振り返り「精一杯駆け抜けた」と感慨を述べた。帰国後は「写真家を本職にしていくこと」が夢だとも語った。
垂氏は1980年代から続く北京、香港、台湾での外交経験をもって、日中関係の相互理解に貢献。中国語圏以外には一度も赴任しないという異例の経歴だ。あいさつでは、「縁有れば千里も来たりて相会い、縁無ければ対面すれども相逢わず」を引用し、中国との深い縁を強調した。
在任中、安倍晋三元首相の台湾有事への言及、G7コミュニケでの中国問題記載、福島原発ALPS処理水放出後の日本産水産物禁輸など、多くの課題を経験してきた。そうしたなかでも、3年前の大使就任会見で明らかにした「中国に対して主張すべき点は主張する」を貫いた。
安倍首相の「台湾有事は日米同盟の有事」との発言に対する中国共産党の反論に対し、「日本国内にはそうした考え方があることを理解する必要があり、一方的な主張は受け入れられない」と喝破した。
昨年の日中国交正常化50周年の記念イベントでは、垂氏は「日中間で相互理解が十分に進まず、相互信頼が全く醸成されていない」と現実的な指摘をした。
福島第一原発の処理水放出計画に対する中国共産党の批判には、「汚染水ではなく処理水であり、この用語を使うべき」と反論し、「科学的根拠に基づかない措置は受け入れられない」と主張した。
あいさつでは、幾重にも重なる両国間の困難を前にしても、垂氏は「山重水複路無きと疑うに柳暗花明また一村」という南宋の詩人・陸游の詩を引用し、日中関係には希望を抱き続けたと語った。
「日中間で相互不信が強まる中、私は常に陸游の詩を思い起こしました。『柳暗花明の村』はきっとあると。日中関係再構築のための希望を失わずに努力してきました」
「四十年弱の間、精一杯駆け抜けた外交官人生であったと自負しています。なんの後悔もありません」と垂氏。帰国後の夢は写真家になることだと語った。垂氏は日本や台湾、中国の写真で環境大臣賞を含む数百点を受賞してきた写真家でもある。
スピーチでは、写真撮影を通じて風景や人々の暮らしを捉えていきたいとした。「レンズで切り取った大自然の偉大さや生活する庶民の喜怒哀楽は、どこにいようと何ら違いはありません」
次は外務省が発表したスピーチ全文となる。
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御来賓の皆様、こんにちは。
公邸の庭が紅く色付く、錦秋の時期を迎えました。本日は、私の離任レセプションにお越しいただき、心よりお礼申し上げます。
私は、まもなく、駐中国大使としての任務を終え、帰国することになっています。2020年11月の着任以来、これまで培ってきた知見や人脈、経験を活かし、なんとか最後の奉公を勤め終えることができたのではないかと安堵しています。
この間、本日ここにいらっしゃる皆様をはじめ、多くの方々の御支援をお借りいたしました。先ずは、そのことに対し、心からの感謝を申し上げたいと存じます。
私は、1980年代中葉に南京大学に留学して以来、これまで北京で4回、香港で1回、台湾で2回の海外勤務を経験しました。また、東京の外務本省においてもアジア局勤務が長く、外交官人生の大半を中国に関わる業務に捧げてきました。
今般、大使としての任務を終え、北京を去るにあたり、これまでの外交官人生を振り返れば、ひと際感慨深いものがあります。本日は、折角の機会でありますので、私の好きな中国のことわざや詩を使って、その思いを披露させていただければと思います。
まずは、「縁有れば千里も来たりて相会い、縁無ければ対面すれども相逢わず」。
私が最も好きな中国のことわざです。
先ほど申し上げたとおり、これまでの四十年弱の外交官人生において、その約半分の18年間を中国、香港、台湾で勤務し生活してまいりました。それほどまで私は、中国と深い縁があったのだとつくづく感じています。
この長い期間において、私は多くの素晴らしい中国の方々に出会い、また助け合いを通じ友情を深めることができました。友人の多さは私の自慢であり、かけがえのない財産であります。これからも、中国の方々との縁を大切にして、今後の人生を全うしたいと思います。
次に、「山重水複路無きと疑うに,柳暗花明また一村」。
これは、南宋の詩人陸游の詩です。「行っても行っても、山が幾重にも重なり、川も曲がりくねり、もうこの先に道がないのかと思ったところ、暗く生い茂った柳の向こうに鮮やかな花が咲く村が見えた」という意味です。
これは、まさに日中関係を考える上で重要な視座を暗示しているのではないでしょうか。
日中関係は、昨年は日中国交正常化50周年、そして本年は日中平和友好条約締結45周年を迎えました。この間、日中関係は素晴らしい時期もありましたが、一方で常に順風満帆というわけでもありませんでした。特に、私が外務本省の中国課長や当地の日本大使館政務公使等、責任ある立場を務めている時に限って、日中関係は苦境に立たされました。
今般、大使の在任期間中においても、私の力不足もあり、日中関係は必ずしも理想的な状況ではありませんでした。日中間で相互不信が強まる中、私は常に陸游の詩を思い起こしました。「柳暗花明の村」はきっとあると。日中関係再構築のための希望を失わずに努力してきました。
そうした意味では、先般、サンフランシスコで、岸田総理は習近平国家主席との間で日中首脳会談を開催し、双方が戦略的互恵関係の再構築を確認したことは喜ばしいことであります。しかし、その実現は容易ではなく、双方が常に理性をもって不断の努力を重ねていくことが求められています。
御来賓の皆様、
私は、日中関係を長い歴史の中に位置づけて、理性的にとらえていくことが大切であると常々考えてきました。
鑑真、空海、隠元、羅森、梁啓超などが残した交流の物語が示すように、「永遠の隣人」である日本と中国の関係は、一千年以上にもわたる「互いに助け合う人間ドラマ」が連綿と紡がれた関係にあります。こうしたドラマは現在も進行しており、今を生きる我々もまた、このドラマの登場人物のひとりであると言えます。
昨今、日中両国ともに人の寿命は延びましたが、それでもせいぜい百年程度であります。しかも、しっかりと仕事ができる時間は更に短く、長い人でも数十年程度であります。しかしながら、日中関係は、これからも、五十年、百年に亘って続いていきます。
そうした意味において、今、我々が行っていることは、次の世代へ連綿と受け継がれていくものであります。私の後に続く後輩達にも、その重みをしっかりと噛みしめ、たとえ困難に直面したとしても、目の前の出来事に一喜一憂せず、日本の国益、そして日中関係のより良い未来のために、誠心誠意尽力してほしいと願っています。
最後は、宋代の蘇東坡の有名な詩で締めくくりたいと思います。
「人に離合の悲歓有り、月に圓缼の陰晴有り、此の事いにしえより難し、ただ願う人の長久なるを」。「人には別れの悲しみと出会いの喜びがあるが、これは、月に満ち欠けがあるように、古来よりどうすることもできない道理であり、ただ友の長生きを願う」との意味です。
今般、帰国するにあたり、少なからずの日本、そして中国の友人から名残惜しいとの声をかけていただき、心よりありがたく感じています。
振り返れば、四十年弱の間、精一杯駆け抜けた外交官人生であったと自負しています。なんの後悔もありません。
帰国後の密かな夢は、写真家を本職にしていくことであります。レンズで切り取った大自然の偉大さや生活する庶民の喜怒哀楽は、どこにいようと何ら違いはありません。
そのことを、自然の神秘さに畏敬の念を抱き、思いやりの気持ちで庶民に接して撮りためてきた、日本と中国、そして台湾の写真作品を通し、少しでも多くの方々に伝えていければと考えています。
最後になりますが、あらためて大使の任期中、そして40年近くに亘る外交官人生の中で、私を教え導き、力を貸してくださった全ての方々に対し、心からの感謝を申し上げるとともに、ご来場の皆様の御健康、そして日中関係の更なる発展をお祈りして、私の挨拶とさせていただきます。
御清聴ありがとうございました。
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