この頃、中国では「躺平(タンピン)の歌」と呼ばれる曲が大ヒットしている。
この歌を入れた複数バージョンのショートムービーまで作られ、広く拡散されて話題を呼んだ。ところが今は検閲が入り、中国のネット上からこの歌は削除されている。
中国の新語で、すでに定着した「躺平(タンピン)」とは「寝そべる。横たわる」の意味である。努力せず、抗わず、ただ流れるままに生きるという「消極的ライフスタイル」のことだ。
結婚せず、子供をもつこともせず、出世もマイホーム購入もあきらめた。生命を維持するだけの労働はするが、それ以上の努力はしない。そうした「寝そべり主義」は、今の中国の若者の生き方として、幅広い共感と支持を集めている。
ただし、中国の若者の名誉のために捕捉するが、彼らが怠惰になったり、生きることに無気力になって「躺平」するわけではない。
今の中国社会には、あまりにも多くの不条理がある。社会そのものが劣化し、腐敗しきっているのだ。そのため、若者がどんなに頑張っても正当に評価されず、努力が全く実を結ばないという彼らなりの理由がある。彼らの「躺平」は、その結果なのだ。
また「躺平」することは、そのような中国社会の現状に対して、若者が選んだ一つのレジスタンス(権力への抵抗)でもある。
例えば、中国では今、急速な人口減少が起きている。これに対し、中国政府は「一人っ子政策」を止め、手の平を返すように、あわてて多産を奨励するようになった。しかし、若者たちが選んだのは「結婚せず、子供も持たず」であった。
結婚費用や子供の養育にお金がかかりすぎるという現実の事情だけでなく、「中国政府に背を向ける」という彼らの姿勢が「躺平」の根底にはある。
そうしたレジスタンスであるからこそ、中国当局は、ただの流行歌である「タンピンの歌」を検閲対象にして、ネット上から削除し始めた。
実際この歌は、プロテストソングではなく、政治性も全くない。ただの流行歌を恐れる中国当局というのは、一種の滑稽な風景であるといってよい。しかし、中国共産党にとって、このような形で抵抗されるのは、なかなか厄介なのだ。
このほど検閲にひっかかた「タンピンの歌」の正式な曲名は「我在財神殿裡長跪不起(私は財神殿でずっと跪いている)」だ。歌っているのは、李二萌さんという若い女性歌手である。特にその歌詞は、現代の多くの若者の心を代弁しているとして、大反響を呼んでいる。
YouTubeでも聴けるので、本記事の筆者(鳥飼)も聴いてみた。なるほど、これはいい歌である。歌の雰囲気が明るくて、テンポもよい。
なぜ、いい歌だと思ったか。その感想をいうと、精神的に追い詰められて今にも自殺しそうになっている若者の心をさりげなく和らげ、わずかに微笑んで「死ななくても、いいか」と思わせるような、明るい陽光のような世界が、この歌にはあるからだ。
想像ではあるが、この歌のおかげで「危ういところ」を救われた若者も、きっといるだろう。
以下に、歌詞の一部を紹介する。
「私は3元するお香を焚いて、3億個の願い事をしている。あとのことは、全て神様に任せよう」
「私の苦しみを一番知っているのは、お寺だけかもしれない。自分の努力を信じるより、神様を信じたほうがまだマシよ」
「うちの社長は必死に資金繰り。私はいつも違う種類のカップ麺を食べている。仕事が終わって帰る時に、電動バイクがバッテリー切れになってないかが一番の心配事」
「昼間は紙にやりたい事を描き、夜は夢の中で結婚を夢見てる。それから私は、お寺にいるか、そこでなければ、宝くじ屋さんね」
「車も要らない、マンションも買わない。子供を生む(産む)より、私は『生』ビールで酔っていたい。ママは私のことを、あんた頭が変になったの、なんて言うけど、ほっといて。でも、これじゃあ神様には叱られるかしら。タンピンしても、なかなか運命には逆らえないものね」
李二萌さんのこの歌には「本当に心に響くね」といった共感コメントが多く寄せられた。
こうした背景について、台湾在住の反体制活動家の李家寶氏は、次のように指摘する。
「中国で、タンピン文化が広まる要因の1つは(若者が)どんなに努力しても、良い生活などできないという現状だろう。どんなに頑張っても、給料から家賃を差し引けば、あとは食べるのがやっとだ。中国の若者は(この不条理に)もう気づいている」
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