中国では近年、暴走車がわざと人混みへ突っ込むなど「社会への報復」を意図したとみられるような凶悪事件が後を絶たない。言わば、中国社会全体が、真っ黒な邪気(じゃき)に満ちているのだ。この邪気を、中国語では「戻気(リーチー)」と呼ぶ。
そのようななか、中国国営テレビ局・中央テレビ(CCTV)の「元司会者」である趙普氏が「今の中国人は邪気が強すぎる。外で人とトラブルを起こさなようにしよう!」と呼びかける動画がSNSで拡散されている。
3回重ねた「人と衝突を起こさないで!」
趙氏は動画のなかで、こう述べた。
まず「皆さんに、心からご忠告します!」と前置きしたうえで、「外で人と衝突を起こしてはいけません」という意味の中国語を3回繰り返した。つまり「不要在外面跟人起冲突。不要在外面跟人起冲突。不要在外面跟人起冲突」である。
くどくどと3回も言った理由について、趙氏は「重要なことは3回言わなければならないからです」と強調した。間違ってはいないが、それ自体、なんとも異様なもの言いである。
趙氏はさらに「私はプロのメディア従事者です。私は専門的な観点からこの社会や周囲の人や事を観察していますが、あまりにも多くの悪質な事件を見てきました。報道されていない事件は、もっとあるはずです」と述べて、以下のように続けた。
「今の社会では、邪気が強すぎる人はあまりに多いのです。そうなった原因はさまざまです。失業した、破産した、住宅ローンの支払いを中止した(購入した住宅の建築工事がストップしたので、もう諦める)などなどで、人々はますます憂鬱になり、不安になっています。なかには精神的に崩壊寸前の人も少なくないでしょう」
「だから、あなたの言葉や行動1つが、ラクダの背骨を折る最後のワラになりかねないのです。あなたの周りにいるそのような人たちが、どんな極端なことをしだすか、あなたには、全く予想不可能なのです」
「ですから、外へ出た時は、できるだけ我慢して、対立を激化させないように、冷静になることが必要です。物事は往々にして、我われが掌握できる範囲の内にはありません。自分の命は一つしかないのです」
そう述べた後、趙普氏は「君子危うきに近寄らず(君子不立于危墙之下)」の諺を使って、動画を締めくくった。
趙氏のコメントのなかにある英語の諺「ラクダの背骨を折る最後のワラ(It is the last straw that breaks the camel’s back)」は中国語でも「圧死駱駝的最後一根稲草」として知られている。
その意味は、たとえわずかでも限界を超えれば、ワラ一本の重さで頑強なラクダの背骨も折れてしまうように、とんでもない大事が発生することを言う。
ただしこの場合、趙氏は、やや特殊な意味でこの諺を使っている。「あなたの相手や周囲の誰かが精神的に突然キレて凶悪犯に豹変しないよう、あなたが十分注意しなさい」と言いたいらしい。
中共メディアが発したのは「統治する側の悲鳴」
さて、先に考察しなければならないのは「なぜ趙普氏が、今のこの時期に、このような内容のメッセージを発信したのか?」という素朴な疑問があることである。
「人と衝突しないように」とは、一般論としては誠に結構なことであり、何の訂正も必要とはしない。しかし、なぜ彼はこのようなことを、X(旧ツイッター)を使って、まるで一個人としてのメッセージのような形で世に出したのか。
当然のことであるが、この動画のなかの趙普氏は、個人のように見えて、全く個人ではない。
趙氏が中国共産党に対して「脱党宣言」を表明し、その身が米国などの自由世界へ亡命して完全に身の安全が保障された状態でなければ、彼は本当の「個人」にはなれないのである。
つまり、中国官製メディアの筆頭であるCCTV(中国中央テレビ)の元司会者である趙氏は、今の段階では組織内の人間であることに全く変わりなく、その発言も、背後に中国共産党という伏魔殿をもつものと考えなければならない。
CCTVといえば、欺瞞と闘争を宗旨とする中国共産党そのものであり、中共の「舌」である。そのCCTVが、滑舌の良いニュースキャスターの口を借りて「外で人と衝突を起こしてはいけませんよ」と3回説くところには、一種の滑稽ささえ感じざるを得ないのだが、まさしくここに一つの答えが見えてくるのだ。
その答えとは、何か。それは中共メディアでさえも、そのような「悲鳴」を上げざるを得ないほど、中国人の心が極限まで荒廃したということ。さらにそのことが、もはや大噴火寸前の活火山のように、体制を転覆しかねない不安定要素として中国社会に充満しているということであろう。
つまり「なぜ今、それを言うのか?」という疑問に対する端的な答えは、そうした悲鳴を上げるほど「中国社会の荒廃が、極限段階に達したから」に他ならない。
今から20年ほど前、胡錦涛・温家宝体制のころには「和諧(わけい)社会」が提唱された。
和とは「和睦」。すなわち人々が心を合わせ助け合うことを意味し、諧とは「協調」すなわち衝突が起きないことを意味する。しかし、胡・温が進めようとした「和諧社会」の実現は、中国共産党の慢性的な重病である腐敗・汚職のなかでかき消され、人々にとっては嘲笑の対象にしかならなかった。
その20年前の「和諧社会」から一部を切り取って、再び唐突にもってきたような今回の趙普氏の呼びかけであるが、果たしてそれが何らかの効果を今の中国にもたらすのだろうか。その結果は、すでに見えている気もする。
言行を慎み「薄氷の上を歩くように」しよう
さて、実を言うと「今の中国社会は邪気が満ちている。人と衝突を起こすな」といった趣旨の動画はSNS上に様々なバージョンのものがある。その1例を紹介すると、下記のような内容だ。
「いかなる人の前でも、またどんな場面であっても、決して人前で自慢話をするな。今の社会は、多くの人が心の奥に吐き出せぬ怒りを抱えている。あなたの心無いちょっとした言動、ひいては友好的ではない視線一つさえも、誰かを刺激しかねない」
「警備員、宅配業者、食事デリバリースタッフなどに対しては、本当に礼儀正しく、笑顔で接してあげなければならない。なぜならば、彼らは職業の性質上、この社会で多くのストレスを受けているからだ。ラクダの背骨を折る最後のワラにならないように。さもなければ、彼らの不満や怒りはすべてあなたに向けられかねない」
「車を運転するときや列に並ぶ時は、割り込みをしない。公共の場で電話しない。大きな声でしゃべらない。誰かにぶつかった時は、すぐに謝る。エレベーターに乗る時も(先を争わず)できるだけ後ろに立つ。言行を慎み、薄氷の上を歩くときのように緊迫した心持ちでいることだ」
いずれも「人との争いを起こさないようにする心得」だという。正常な社会であれば当然のマナーや常識ではあるが、今の中国においては「焼け石に水」の感は否めない。
(「言行を慎み、薄氷の上を歩くときのように」と呼び掛ける動画の一例)
「邪気」が充満した社会
これらの動画へ寄せられたコメントのなかには、「確かに今の社会は邪気に満ちている。自分でどんなに人とのトラブルに巻き込まれないように気をつけていても、外へ出れば、無差別切りつけや暴走車などの社会報復事件に巻き込まれる可能性がある」といった、どうしようもない嘆きの声も少なくない。
実際、中国社会の邪気がもたらす悲劇は、ほとんど毎日起きている。あるツイッターアカウントがまとめた不完全な統計(下に添付した図表)によると、先月(8月)に中国各地で起きた「社会報復事件」は少なくとも54件ある。それにより199人以上が死亡し、158人以上が負傷した。
7月には106件確認され、176人以上が死亡し、132人以上が負傷。
6月には59件確認され、111人以上が死亡し、113人以上が負傷。
5月には41件確認され、91人以上が死亡し、60人以上が負傷。
4月には27件確認され、80人以上が死亡、30人以上が負傷。
「ひと月ごとに増加する犠牲者の数」を、見事なほど正確に示している図表には、どこまで伸びるのかという懸念とともに、ぞっとするような恐怖感さえ禁じ得ない。
(中国で起きた社会報復事件の一部をまとめた投稿)
趙普氏の動画が示した「最大の真実」
中国語で、人間の健康を損ねて病気にしたり、世の中の悪い気風を助長する邪気を「戻気(リーチー、れいき)」という。この「戻気」すなわち邪気が充満しているのが、現代の中国社会である。
「戻気」が充満した中国では今、若者から高齢者に至るまで、自殺が頻発している。さらには「社会への報復」を意図したとみられるような、暴走車や重機まで使った無差別殺人などの凶悪犯罪が後を絶たない。
それぞれを個別の案件として見れば、職場や家庭内のトラブルがあったり、経済的にひっ迫するなど、犯行に至るまで追い詰められた具体的な状況はあるだろう。しかし、総じて今の中国社会には、この「戻気(邪気)」があまりにも濃厚なかたちで充満しているのだ。
そのように「戻気」が充満した社会は、まさに現代中国の闇であると言ってよい。その闇に光が差さない限り、今後も、自殺者や社会報復事件が増加することは避けられないだろう。
さて、本記事の最後に、趙普氏の動画が示した「最大の真実は何か?」について言及しておきたい。
趙普氏は動画のなかで、こう言った。「今の社会では、邪気が強すぎる人はあまりに多いのです。そうなった原因はさまざまです。失業した、破産した、住宅ローンの支払いを中止したなどなどで、人々はますます憂鬱になり、不安になっています」。
このなかで趙氏は、中国社会に戻気(邪気)が充満した「最も核心的な原因」を、わざと言っていない。つまり彼は、ニュースキャスターとしての巧みな話術を弄してそれを隠蔽し、民衆の不満の矛先を意図的に逸らそうとしたのだ。
最も核心的な原因とは、言うまでもない。「中国共産党による独裁体制が、今日の中国と中国人に邪気をもたらした最大の元凶だ」という、この一点である。
しかし彼は、それを言わなかった。「そうなった原因はさまざまです(什么原因呢,各种答案都有)」の一言で、問題の本質を巧みに分散しているのだ。
当然ながら趙普氏のこの動画は、中共メディアの代表であるCCTVのなかで製作の段階から練り上げられ、脚本の台詞はもちろん、効果音やカメラワークを駆使し、趙普氏も「演者としての練習」を重ねて撮影されたものだ。全ては、計算して作られている。
そうした彼らの陰謀を看破した時、趙普氏の動画が示した「最大の真実」が、逆光のなかにシルエットとして浮かび上がってくる。
繰り返すが、邪気の「最大の元凶」は中国共産党である。動画の趙普氏がそれを言わなかったことで、かえってそれが明らかになった。そのことは、おそらく趙氏本人も気づいてはいないだろう。
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