「地上の楽園」に43年間 ある脱北者が伝えたいこと

2022/10/18
更新: 2022/10/20

「学業が優秀なら授業料が免除される」

在日コリアン2世の川崎栄子さんはある日、帰宅すると男性が訪れていた。家庭の経済事情で高校進学を諦めかけていた栄子さんはその言葉に心を動かされた。男性は朝鮮総連の関係者だった。

「自分の力で勉強できるー。その言葉に引っかからなかったら、北朝鮮に行くことはなかった」。栄子さんは男性の勧誘を受け入れ、朝鮮高校への進学を決意した。

「北朝鮮は地上の楽園だ。税金はタダ、教育費も医療費もタダ、家もタダ同然。社会主義は正しい」。学校ではこうした宣伝文句を毎日のように聞かされていた。

教室の真ん中に金日成の肖像画が掛かっていたが、個人を強調することは高校生ながら違和感があった。金日成将軍を讃える歌を在校中、一度も歌わなかった。このことがのちに命を危険に晒す引き金になるとは、当時知る由もなかった。

高校に入ってまもなく、日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「北送事業」が始まった。1950年代から1984年まで、9万3千人が北朝鮮に渡った。当時の「3年後には里帰りできる」との約束は空しく、二度と日本に戻れなかった人は多い。

1960年、川崎栄子さんは17歳の時、北朝鮮に行くことになった。

「父は涙をボロボロと流しながら、1年後には家族を連れて北朝鮮に行くと約束してくれた」

1959年12月14日、北送事業に参加し、北朝鮮に向かう第一次帰国船が出発しようとしている。(川崎栄子さん提供)

初めて見た「地上の楽園」

新潟から船に揺られて3日間。北朝鮮が見えてくると、人々は愛国歌を歌ったり、涙を流したりして感情が高ぶっていた。しかし、港に近づくにつれて「地上の楽園」の住民のただならぬ様子に驚愕した。

「みんな皮膚はカサカサで栄養失調になっているのが分かりました。全員同じグレーのヨレヨレの服を着て、靴下を履いている人はいませんでした。革靴を履いていたのは迎えに来た幹部だけでした」

その時、日本語が聞こえてきた。「日本からの学生さんは降りずに、その船で日本に帰れ」と懸命に叫んでいた人がいた。先に北朝鮮に渡った朝鮮高校の先輩だった。しかしそのとき、帰る選択肢はもうなかった。下船を断った人はその場で逮捕されていた。

43年にわたる北朝鮮の生活は絶望感の中で始まった。

最初にぶち当たった壁は食べ物だった。米はなく「とうもろこし、ジャガイモ、小麦、コウリャン、大豆」などの雑穀だけが支給される時もあった。

帰国者らは日本から持ってきた衣類などを闇市場で食べ物と交換したり、日本にいる家族に援助を求めたりしていた。頼れる人がいない帰国者は一瞬にして極貧生活に転落した。中には売春で生計を立てる女性もいた。

「北送事業に参加するよう勧誘活動を一切しなかったのがせめての救いでした。千人を動員したという男性は良心の呵責に耐えられず、自殺に追い込まれました」

父には「一番下の弟が結婚する時に会いましょう」と何度も手紙を送った。幸いにも、父は栄子さんの真意を察知し、北朝鮮行きの計画を取りやめた。

北送事業に関する当時の新聞報道。(川崎栄子さん提供)

「見ざる 言わざる 聞かざる」

北朝鮮を生き抜くための心得だった。

「自分の発言が巡り巡って自分にどのような影響を与えるのか、そこまで計算しないと話すことはできないから」

すべてを心の奥にしまい込んだが、それでも何度か危険な目に遭遇した。

大学卒業後、出張で平壌に行った時の出来事だった。朝鮮高校時代の友人を訪ねたところ、7、8人と雑談している最中だった。友人は突然、栄子さんを指差して「この人は日本にいた時、金日成将軍の歌を絶対に歌わなかったんだよ」と言い出した。

「その言葉を聞いて『あ、私の命はこれで終わった』と思いましたね。その後、自分がその場をどうやり過ごしたのか、記憶にありません」

今日逮捕しに来るのか、明日来るのか、ずっと身構えていたが2年が経っても誰も来なかった。やっと一難から逃れられたのだと気付いた。運良くその場にいた全員は友人の言葉をスルーしてしまったようだ。

北朝鮮では死は日常にあった。理由もなく政治犯として逮捕された知人、同僚をたくさん見てきた。皆の感覚も麻痺していた。

その後、北朝鮮の男性と結婚し、5人の子供が成人するまで育て上げ、そして全員が結婚した。「これで親の務めを果たした」と栄子さんは2003年12月についに脱北を決意した。60歳の時だった。

「これ以上この国にいる必要はない。この惨状を外の世界の人たちに訴え、一緒に対策を立ててもらわないとどうにもならないからです」

2002年4月8日、国連世界食糧計画による河川改修プロジェクトで働く北朝鮮の人たち。(WORLD FOOD PROGRAMME POOL/AFP via Getty Images)

「震えながら国境を渡った」

情報が漏れると命の危険がある。家族の誰にも告げることなく、単身で中朝国境に向かった。

「捕まって拷問されることだけは避けたい。だから、捕まったら死ぬつもりでした」。栄子さんはアヘンをポケットに忍ばせていた。「万が一の時は、これを呑み込めば死ねるから」

当日、母から送られてきた日本製の服を着て、いかにも帰国者らしい恰好をして、国境地帯を歩いた。帰国者を脱北させるブローカーからの「お声がけ」を待っていた。

案の定、「川の向こうの中国に大きな市場があるので行きたくないか」と声をかけられた。脱北を意味する隠語だった。

「とにかく安全に渡らせて」とブローカーに通常の2倍の料金を払った。

国境を流れる川の上流には歩いて中国側に渡れるポイントがあった。広い河川敷を渡り切るまで、足はずっとガタガタ震えていた。向こうで待機していた中国側のブローカーの車に乗り込み、市街地に入った。

「中国政府よ、脱北者を捕まえるな」

日本に帰国するための手はずが整うまで、中国に1年半潜伏した。

中国人ブローカーの夫が中国共産党の大物幹部だったため、栄子さんは自由に街を出歩いていた。脱北者を相手に人身売買を行うブローカーの通訳をしたこともあった。そこで、脱北者が中国で受けた非人道的な待遇を知ることとなった。

「大きなアルバムを見せられました。全部女の子の写真でした。上玉は韓国の金持ちに送ります。その次は韓国や日本、中国の遊興街で働かされます。その下のランクは韓国や日本の男性と結婚させられます」

「一番悲惨なのは中国の奥地に売り飛ばされた女性だった。夫となる男性の家族にレイプされたり、売春させられたりしています」

「脱北者に女性が多いのは、男性は働いてもたいした金にならないが、女性なら売春すればお金になるからです」

また、人身売買に加担しているのは「同じ朝鮮族の人たち」だという。中国の警察に捕まえられると北朝鮮に強制送還されるため、脱北者の弱みにつけ込んで僅かな賃金で働かせたりするなど、強制労働も横行している。

「中国にいる脱北者は常に怯えながら生活しています。中国当局は彼らを捕まえないでほしい。国際法に則って難民として保護してほしい」と栄子さんは訴える。

「日本に帰って一番嬉しかったことは…」

2003年、日本領事館に行き、栄子さんの日本への帰国はついに認められた。その時、日本にいる弟から父が倒れたと知らされた。「日本に帰るまで生きていてほしい」と願った。渡航書はすぐに発行され、受け取った次の日に帰国の途についた。

関西国際空港に着いたのは深夜だったが、その足で父の病院に見舞いに行った。

「もう話すことはできなかったが、父は私の顔を見てビックリした表情でした。『父さん、もうどこにも行きませんから』と声をかけました」

4日後、父は亡くなった。

「娘として最低限の道義を果たしました。日本に帰って一番嬉しかったことは、父が生きているうちに会えたことです」

その後、母と暮らしながら『日本から「北」に帰った人の物語』 を執筆した。同じ船に乗って北朝鮮へ渡った在日朝鮮人と1800人の日本人妻、6800人の日本国籍保有者の運命について書いた。

帰国して2年後、母は死去した。

「北朝鮮の人は拉致問題を知らない」

拉致問題を知ったのは日本に帰国してからだ。

2002年9月、当時の小泉純一郎首相は歴代首相として初めて訪朝し、金正日総書記と会談を行った。北朝鮮側は初めて拉致被害者の存在を公式に認め、蓮池薫さんら5人の日本への帰国が実現した。

「北朝鮮では拉致事件は全く知られていません。小泉首相の訪朝は報道されましたが、拉致については一言もありませんでした。金正日総書記にお教えを請いに来たと伝えられていましたから」

2002年9月16日、東京で行われた拉致被害者の救出活動。 ( Junko Kimura/Getty Images)

「社会主義は死を意味する」

北朝鮮で一番被害を受けたのは、北送事業に参加した日本人妻だと栄子さんは言う。「植民地支配国の国民と言う理由で、彼女たちはひどいいじめを受けました」

当時、ツナ子という日本人妻と知り合いになった。「北朝鮮で死ぬかもしれないと思うと、飛び降りたくなる。でも絶対ここで死にたくない」とツナ子さんは栄子さんに心情を吐露していた。

「ツナ子さんは年齢のこともあって、脱北を急いでいました。悪徳のブローカーに引っかかり、息子さんとともに逮捕されました。国境警備隊に2、3カ月拷問されたあと、居住地の保衛部に身柄を渡されましたが、2人とも保衛部で亡くなりました」

ツナ子さんの死を知った時、涙が止まらなかったという。「在日コリアンである私でさえ日本に帰ろうと思ったのに、日本人のツナ子さんはどれだけ悔しかったか…」

「共産主義、社会主義はイコール死を意味する。もし社会主義に憧れている人がいれば、ぜひ目覚めてほしい」と栄子さんはこう振り返る。

脱北してもうすぐ20年が経つ。栄子さんは現在、日本から北朝鮮へ渡った人たちの人権と権利の回復のために様々な活動を行なっている。

 

李沐恩
李沐恩
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